2018年9月25日火曜日

18.仏教伝来と文字伝来


 

『隋書』に「無文字、唯刻木結繩。敬法、於百済求得仏経、始有文字。<文字はなく、ただ木を刻み縄を結ぶ。仏法を敬い、百済において仏経を求得し、始めて文字あり。>」とあることから、我が国には仏経が伝来する以前には文字がなかったとされる。

 

しかし、『隋書』の記事は記紀の文字伝来記事と対応しない。

 

〇仏教伝来

 

我が国への仏教伝来については、538年と552年の二説ある。

 

538年説は、『上宮聖德法王帝説』に「志癸嶋天皇(欽明天皇)御世戊午年十月十二日、百済国聖明王、始奉度仏像経教并僧等」とある、欽明天皇の御世の戊午(538)の年の十月十二日に百済国の聖明王が始めて仏像・経教並びに僧等を度(渡)し奉る、とするものである。

 

552年説は、『日本書紀』欽明十三年の「冬十月、百済聖明王更名聖王遣西部氏達率怒唎斯致契等献釈金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻。とある、欽明十三552年の十月百済の聖明王が使者を使わし、金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献上した、とするものであ

 

『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に「大倭国仏法創、自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月、度来。百済国聖明王時太子像并灌之器一具及説起書一筐度」とあり、百済の聖明王が仏教を伝えたのは欽明天皇の七年(546)とあるが、干支年は戊午(538年)とある。

 

平安時代後期の公卿大江匡房の『対馬貢銀記』に「欽明天皇之代、仏法始渡吾土、此島有一比丘尼、以呉音伝之。」とあり、欽明天皇の時代に倭が国に始めて仏法が渡ってきたときに対馬の比丘尼が仏法を「呉音」で伝えたとある。

 

仏法の経論・経教・起書が「呉音」であるのは当然である。

 

隋の大業(608)年倭国に遣わされた裴世清は、この対馬の比丘尼が伝えた「呉音」を「文字」のことと早とちりをしたのではなかろうか。

 

平安末期成立の『日本紀略』延暦十一(792)年に、桓武天皇は「勅。明経之徒、不習正音、発声誦読、既致訛謬、(宜)熟習漢音。<勅す。明経(経書を学ぶこと)の徒は、正音を習わず、誦読を発声するに、既に訛謬に致す。宜しく漢音を熟習すべし。>」と勅命したとある。

 

朝廷は遣唐使の持ち帰った「漢音」を文字を読む「正音」としたが、桓武天皇の時代になっても中国の儒教の経典を学ぶ明経の徒は「正音」を習わず、今までどおり経典を誦読するのに「呉音」を使用していた。

 

ために、桓武天皇は明経の徒にも「漢音を熟習(習熟)すべし」と勅命した。

 

『日本後紀』延暦十二(793)年には、「制、自今以後、年分度者、非習漢音、勿令得度。<制す。今より以後は、年分度者(その年に出家を認められた人)は、漢音を習わずば、得度(悟りを求めて仏道の修行に入ること)せしむることなかれ。>」とある。

 

しかし、仏教の経典はリズムよく誦読するように呉音(上古音)で押韻されており、すでに普及した経の読み方はそう簡単には変わらず、仏教語の漢字音に呉音読みが残った。

 

日本語の漢字音に呉音読みと漢音読みがあるのはこのためである。

 

文字伝来

 

文字の伝来については、『日本書紀』応神十五(284)年に「阿直岐亦能読経典、即太子菟道稚郎子師焉」とあり、経典を能く読む百済の王子阿直岐が入朝し太子菟道稚郎子の師となったとある。

 

翌十六(285)年には「春二月、王仁来之、即太子菟道稚郎子師之、習諸典籍於王仁」とあり、太子菟道稚郎子の師の王仁が来たりて、太子は王仁に諸典籍を習ったとある。

 

王仁(和邇吉師)が持ち来たりた諸典籍について、『古事記』神記に「亦百済国主照古王、以牡馬一疋、牝馬一疋、付阿知吉師以貢上。亦貢上横刀及大鏡。又科賜百済国若有賢人者貢上。故、受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十巻、千字文一巻、并十一巻付是人即貢進」とある。

 

ここにある『千字文』は魏の鍾繇(151-230) になる漢字の習本として用いられた、1000の異なった文字からなる漢文の長詩である。

 

今に残る『千字文』は巻首に「魏大尉鍾繇千字文・右軍将軍王義之奉勅書」とある、魏の鍾繇の『千字文』を晋の王義之が勅を奉じて書いた「二儀日月」で始まる二儀日月千字文』である。

 

一般に知られる『千字文』は梁の周興嗣(470-521)が武帝の勅を奉じて、魏の鍾の『千字文』を韻に従い順序を正したという「天地玄黄」という言葉で始まるもの。

 

日本の地名や人名の漢字音には呉音が伝わる以前に伝わった中国上古音に由来するといわれる「古音」と呼ばれるものがある。(『講談社漢和辞典』「日本漢字音の分類」:「奇(ケ)、宜(ガ)、居(ケ)、挙(ケ)、思(ソ)、移(ヤ)、己(ヨ)、里(ロ)、川(ツ)、止(ト)」)

 

『魏志』倭人伝に「伝送文書・賜遺之物、詣女王」とある魏から卑弥呼に伝送されてきた文書には、鍾繇の『千字文』が含まれていたのかもしれない。

 

それは兎も角、卑弥呼に「文字」が齎されているのは確実である。

 

『魏志』倭人伝には卑弥呼が魏の明帝から「親魏倭王」に制詔(天子の命令)された時(景初二年)の詔書の全文が収載されている。

 

其年十二月、詔書報倭女王曰;『制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使、送汝大夫難升米、次、使都市牛利、奉汝所獻、男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今、以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授。汝其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米牛利、渉遠道路勤勞。今、以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今、以絳地交龍錦五匹、絳地[/] 十張、絳五十匹、紺青五十匹、荅汝所獻貢直。又、特賜汝、紺地句文錦三匹、細班華[/]五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、皆裝封、付難升米・牛利。還到録受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故、鄭重賜汝好物也。』

 

<景初二年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く;『親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏が郡使を遣わし、汝の大夫難升米、次、使都市牛利を送り、汝が献ずるところの男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り、以って到る。汝が在るところ踰(はる)かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚(はなは)だ汝を哀れむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し仮に授ける。汝が其の綏撫する種人に、勉めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り道路勤労す。今、難升米を以って率善中郎將と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見(接見)し労を賜(ねぎら)い遣わし還す。今、絳地交龍錦五匹・絳地[/] 十張・絳五十匹・紺青五十匹を以って汝が献ずるところの貢直に答える。又、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華[/]五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠、鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して、難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以って汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝に好物を賜う也。』>


2018年9月19日水曜日

17.上古音と中古音


中国語の漢字音は漢民族の音(上古音という)の上に、異民族である北方民族の鮮卑・匈奴の音が載り、形声文字の細かな音の違いが変化して、ある文字は上古音とは違う音になる。このような形で生まれた北方系の発音を中古音という。

 

呉が覇権を争うことになる三国時代の前夜、プレ三国時代ともいうべき漢末の動乱時、中国華北に鮮卑・匈奴などの北方民族が流入しはじめ漢民族は激減した。

 

184年、黄巾の乱が発生し後漢は崩壊に向かい、これを契機に曹操、劉備、孫堅が各地で挙兵し三国志の時代を迎える。

 

220曹操死去し子の曹丕魏王を襲位。漢の献帝は曹丕に皇帝の位を譲る事を余儀なくされ、ここに後漢滅亡した禅譲を受けて曹丕は皇帝(文帝)となり、魏を建国した。

 

221劉備も漢の後継者と称し皇帝に即位し、を建国した。

 

222年、呉の孫権帝位を宣言し、三国鼎立の状態となった。

 

三国時代を通じて北方民族の流入はみられた。

 

263蜀が魏に滅ぼされる。

 

265年、魏が晋の司馬炎に帝位を禅譲。

 

280年、晋が呉を滅ぼし天下を統一した

 

晋の初代皇帝・司馬炎の死の1年後の291年、王族だった司馬氏同志が抗争を繰り広げた八王の乱が勃発。王族だった司馬氏は戦闘に北方民族を傭兵として活用したことで、華北は完全に鮮卑匈奴などの北方民族が支配するようになった

 

316年、漢民族の晋は匈奴に滅ぼされ、首都洛陽を追われた司馬睿は揚子江流域の呉の地に遷り、東晋を建てた(都、建康、今の南京。それまでの晋を西晋と呼ぶ)。

 

華北では五胡十六国が乱継続し、386年、北魏が建国し、439年、その北魏が華北を統一した。

 

華南では420年、東晋から宋に移り、南北朝時代となる。(鮮卑族の北朝は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝。漢人の南朝は宋・斉・梁・陳の四王朝が興亡、呉・東晋朝を合わせて六朝時代。)

 

南北朝の時代に漢字音はそれぞれの地方で独自の変化をしたが、漢民族の南方系はそれほど変化しなかった(上古音を色濃く残していた)。

 

三国時代が上古音から中古音への変遷期とみる向きもあるが、魏晋時代の歌謡などの押韻パターンは去入の押韻がかなりあり、去声の多くが濁音韻尾を保持していた可能性が強く、ほぼ完全に上古音の体系になっている。

 

上古音から中古音への変遷期は五胡十六国の時代で、それも華北において顕著であったと見るべきであろう。

 

589年、南北朝は北朝系の隋により統一された。

 

〇切韻

 

隋の仁寿元(601)年、陸法言・顏之推らによって中国最初の韻書(発音辞典)である『切韻』が編纂された。

 

『切韻』に「秦人は、去声も入声(「ktp」の子音で終わる音節のこと)のように発音する」と書かれており、秦人にも濁音韻尾の上古音の体系が残っていた。つまり、『切韻』成立の隋の時代には濁音はほぼ消滅していたと推定される。

 

『切韻』(618-907)の時代に増補され『唐韻』(732年成立)と称された。

 

唐代には韻書の他に日本語の五十音図に相当する韻図が盛んに作られ、その一部は現存していることから、この時代の漢字音はよくわかっている。

 

中古音は韻書や韻図を資料とする唐代の音韻体系で「隋唐音」「隋唐代標準音」とも呼ばれている。

 

唐の長安の発音は、声母の清濁がほぼ消滅し、次濁声母(鼻音)が鼻濁音化した。

 

唐の時代になると異民族であった北朝系を歴代王朝として正当化する為に、自分たちが使用した鮮卑・凶奴の音が混じった発音を「漢音」と称し、漢民族の音である南朝系の使用した言葉に「呉音」のレッテルを貼った。

 

唐の李は『刊誤』の中で切韻の発音を「呉音」であるとし、呉音乖舛、不亦甚乎。上声為去、去声為上<呉音の間違いはまたひどいものではないか、上声を去声とし、去声を上声とするとは>。」とか、長安では「何須東冬中終、妄別声律<東と冬を分ける切韻のような、ややこしい韻の区分をしてはいない>」と述べている。

 

『切韻』は当時の中国語の音価を反映したものではなく、漢人に対して異民族の王朝である隋・唐が多言語の統一国家を文化制度面で維持するために、儒者たちが古典を朗読するための「音価はこうあるべきだ」という、国家が認定する標準的な読書音を示した発音辞典である。

 

上古音とは詩経や楚辞あるいは辞賦などを資料とし推定された音韻体系(詩経音系)である。

 

だからこそ、『切韻』は科挙の基礎ともなった。

2018年9月8日土曜日

16.「倭」と「奴」の字音


〇「

 

辞書には「倭」の字音は呉音読みでも漢音読みでも「ワ」と「イ」の両読みとある。

 

日本語の漢字音に呉音と漢音があるのは漢字の伝来が数次にわたっていたからである。

 

中国語の漢字音は上古音でも中古音でも一字一音節が原則であ、一つの漢字が完全に違う発音を複数もつということはない。(例外的に同じ文字でも動詞か名詞かで発音が違うことはある。銀行の行〈北京語hang,広東語hong〉と「行く、行う」のxing。)

 

わが国には上古音である呉音が先に伝来し、漢音は唐の時代に遣唐使が持ち帰った中古音である。

 

『詩経』小雅四牡之詩の「四牡騑騑、周道倭遅」の倭遅は(イチ)と読む。

 

『諸橋大漢和辞典』には他に「イ」と読む例として、地名の倭赤(イセキ)、容姿の醜い女性をさす倭傀(イキ)、切り下げ髪の意の倭堕(イダ)、なよなよしたさまをいう倭移(イイ)、遠回りをいう倭迤(イイ)などがある。

 

「倭」は両読みではなく「イ」が呉音(上古音)で、「ワ」が漢音(中古音)ではなかろうか。

 

後漢の許慎になる最古の部首別漢字字典である『説文解字』和帝の永元十二(100)年成立)に、「倭、順兒(すなお)、人に从(したが)い、委(イ)の声、詩にいわく、周道倭遅」とあり、「倭」は「委(イ)」と発音するとある。

 

『説文解字』は「倭」も委音十四字の一つとしており、「倭」が上古音で(ワ)と発音されていた形跡はない。

 

『前漢書』の「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」に対して、上古音の時代の魏の如淳、晋の臣瓉と中古音の時代の唐の顔師古が【如淳曰:如墨委面、在帶方東南萬里。臣曰:倭是國名、不謂用墨、故謂之委也。師古曰:如淳云如墨委面、蓋音委字耳、此音非也。倭音一戈反、今猶有倭國。】と注を付けている。

 

魏の如淳は倭人というのは「墨刑のように委面(イ面:顔の入れ墨)をしている」からだとしている。

 

晋の臣瓉は如淳の見解に対して「倭は国名であって、入れ墨をしているからいうのではない、故(ふる)くは之(倭)を委(イ)といったのだ)」としている。

 

唐の顔師古も如淳の見解に対して「如淳が倭の由来を墨刑のように委(イ)面していると云うのは、委字の音のみからだろうが、この音(イ)は非なり)」としたうえで、「倭音一戈反」と音注を付けている。

 

この「A BC 反」という音注は漢字の音節(字音)表記法で反切法と呼ばれ、A 字の音は、B字の声母と、C字の韻尾を結合した音ということを表している。

 

「倭音一戈反」とは、倭の音は一(i-et)と戈(k-ua)の反(i+ua)の「iuaワ」であるということ。

 

飛鳥藤原宮跡から出土した木簡之(イシ)とみえる。

 

他に、阿遅(アジ)阿由(アユ)伊加(イカ)伊貝(イガヒ)伊伎須(イギス)河鬼(カキ)加麻須(カマス)久己利(クコリ)黒多比(クロタヒ)佐米(サメ)須ゝ支(スズキ)多比(タヒ)知奴(チヌ)津備(ツビ)尓支米(ニギメ)乃利(ノリ)布奈(フナ)富也(ホヤ)弥留(ミル)等。

 

藤原宮持統天皇(694)から元明天皇が平城宮に遷る和銅(710)年まで用いられたから、木簡は遣唐使の持ち帰った唐代の中古音が用いられている筈。

 

顔師古の唐の時代の中古音では倭は「ワ」と発音するように変化していた。

 

〇「奴」の字音

 

辞書には「奴」の字音は呉音(ヌ)漢音(ド)とあるが、逆ではなかろうか。

 

普通は清濁が対立するときは奴隷・匈奴のように濁っているのが呉音(上古音)、奴婢・奴僕のように濁っていないのが漢音(中古音)である。

 

 

現代中国の標準語(普通話、国語)である北京音には音韻としての濁音がなく、漢音(中古音)である唐の長安の音とかなり近いという。

 

現代北京語(拼音)では「奴」は「」と発音する。

 

藤原宮跡から出土した木簡知奴(チヌ)とある。

 

「奴」は漢音(中古音)では「ヌ」と発音されていた。

 

諸橋大漢和辞典に「奴」で形声する文字(努怒呶孥帑弩駑・・・)のうち、は「」と読むとある。

 

説文解字』に「帑、金幣所蔵也、从巾奴声」とあり、「奴の声」とは「ト」と発音するということ。

 

漢字は偏が相違するだけで音符が同じ漢字(形声文字)は、基本的に同音である(去声と入声、声母の清濁による細かい「音の違い」はある)。

 

「努」は努力の「ド」、憤怒は「フンド」、「呶」は「ド・ドウ」、「孥」は孥戮(ドリク)、「弩」は弩弓(ドキュウ)、「駑」は駑馬(ドバ・・・。

 

「奴」は呉音(上古音)では「ド・ト」と発音されていた。

 

(余談)

憤怒」は西村寿行の小説に「君よ憤怒(フンヌ)の河を渉れ」とあることから「フンヌ」とも読まれる。小説の映画化に当たってはタイトルを「君よ憤怒(フンド)の河を渉れ」としている。


2018年9月5日水曜日

15.金印「漢委奴国王」の読み方

天明四(1784)年に志賀島から出土した国宝の蛇鈕の金印は、『後漢書』倭伝に「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬。」とある、中元二(57)年に“倭奴国”が後漢初代皇帝の光武帝劉秀から賜ったものである。

金印には一部に贋作説もあったが、1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で出土した中元三(58)年に光武帝の子劉荊に下賜された「廣陵王璽」の亀鈕の金印の円い鏨(たがね)の文様や字体が「漢委奴国王」の金印と似通っていることから、同じ工房で制作された可能性が高いとされ贋作説に終止符が打たれた。

印刻の委(イ)は倭(ワ)の省画とされ、印文は「漢の委(ワ)の奴(ナ)の国の王」と読んだ三宅米吉説が定説となっている。

***

三宅米吉『漢委奴国王印考』明治2512月:漢委奴国王の五字は宜しく漢の委の奴の国の王と読むべし。委は倭なり。奴の国は古の儺県、今の那珂郡なり。後漢書なる倭奴国も倭の奴国なり。

***

三宅が「奴」を「ナ」と読むのは、金印が出土した志賀島あたりが古くは儺県(ナノアガタ)と呼ばれていたことによる。

しかし、「奴」の字音は呉音(ヌ)漢音(ド)であり、「奴」を「ナ」と読む辞書はない。

金印が儺県から出土したからといって、金印の「奴」だけは例外的に「ナ」と読むのは恣意的である。

発見された当時(17842)、福岡藩の亀井南冥は『金印弁』のなかで「委奴」を「ヤマト」と読んでいる。

4月に京都の藤貞幹が「委奴」を「イト」と読む「伊都国」説を提唱、翌5月には大阪の上田秋成も『漢委奴国王金印考』で「此委奴ト云ハ皇朝ノ称号ニアラズ、当今筑紫ノ里名ニテ魏志ニ云 伊都国是也、伊都国ト云ハ 和名抄ニ筑前国怡土郡アリ」と論じている。

亀井南冥も後に伊都(イト)と読み改めている。

印文は、授与する側(中国の天子)と授与される側(夷蛮の長)の二者の関係を示すもの。

今、大谷大学に現蔵の銅印駝鈕の「漢匈奴悪適尸逐王」の印文は「漢の匈奴(キョウド)の悪適尸逐王」と読まれる。

「漢委奴国王」の印文は「漢の委奴(イト)の国王」と読む。

『後漢書』なる倭奴国も倭奴(イト)国なり。

2018年9月4日火曜日

14. 一大率と刺史

自女王以北、特置一大率検察、諸畏憚之、常治伊都國中有如刺史王遣使詣京都・方郡・諸韓国、及郡使倭、皆臨津。捜送文書賜遺之物、詣女王不得差錯。」

 

女王国より以北に、特に一大率を置き、検察せしむ。諸国は之を畏れ憚る。常は伊都国に治す。国中に於ける刺史の如くあり王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣り、郡使の倭国へ及ぶに、皆、臨津す。伝送の文書と賜遺の物を搜露し、女王に詣るに差錯するを得ず。

 

特置と常治

 

伊都国には中国の「刺史」のような「一大率」という官がいた。

 

一大率は常(常時)は伊都国を治所としているが、魏の京都(洛陽)や帯方郡あるいは諸韓国へ派遣された卑弥呼の遣使が帰倭したときや帯方郡使が来倭したときは、特(臨時)に邪馬壹国以北の諸国に治所を置いた。

 

卑弥呼の遣使や帯方郡使が携行した卑弥呼への文書や賜遺の物は、これらの国々で引き継がれて伝送(次々に送る)された。

 

一大率は伝送される文書や賜遺の物とともに諸国を巡り、卑弥呼の遣使や帯方郡使も皆、臨津(わたし場に至る)した。(『諸橋大漢和辞典』:【臨津(リンシン)】わたし場に至る。

 

は、必ずしも“船着き場”を意味するとは限らない。

 

水陸の交通に重要な地点を「津要」といい、要衝に設けて旅人を検査する関を「津関」という。

 

一大率の検察(考え調べる。閲する。吟味する。)とは、諸国の津(渡し場)で伝送されてきた文書や下賜品とを露(あらわに)し搜(かぞえ)て、差錯(間違い)がないようにすることである。

 

諸国一大率の検察を畏憚(おそれはばかること)した

 

諸国が畏れ憚ったのは、一大率の検察による「抜け荷」の発覚であろう。

 

刺史

 

刺史は郡県制のしかれた秦代に郡の監察を職務とする監御史に由来し、前漢の武帝が全国(九十八郡)を十三州に分けた時に新設された郡太守の上級官で中央から派遣された地方行政官で使君とも呼ばれた。

 

その州に属する各郡を巡回し郡太守の職務の監察を主務とした。その官秩は六百石であり、郡太守(秩二千石)よりも低かった。(『漢書百官公卿表:「武帝元封五(BC106)年、初置部刺史、掌奉詔條察州、秩六百石、員十三人。」)

 

しかし、郡太守の職務を監察するという任務の性格上しだいに権力を持ち、漢霊帝のときの混乱時に際し、牧(刺史の別名)の劉虞らが幽・益・予などの各州の反乱を鎮めた。

 

この時以来、軍官も兼帯するようになって一州の全権を掌握するに至り、後漢末には郡太守よりも上位になった。

 

魏晋の時代も州内の郡太守を統括する上級行政官として権力がさらに大きくなり、なかには都督諸軍事の資格も兼ねて、軍事、行政、司法を握る強力なものになった。

 

西晋の太康元(280)年、武帝は呉を平定し統一を果たしたのを期に、地方官の帝権に対する反乱を未然に防ぐことを意図して、刺史と軍官の兼帯は禁じ詔勅を出した。

 

しかし、太康282)年7月に平州刺史の鮮于嬰が鮮卑の侵入を撃退したり、その9月に呉降将の反乱で揚州が包囲されたので徐州刺史が出動し鎮圧したりと、まだ刺史が将軍として機能していた。

 

ために、刺史の職掌を漢制に戻そうとする詔勅は何度か出た。

 

陳寿の三国志執筆時の晋の太康年間後葉には完全に軍官の兼帯は禁じられ、漢の時代のように非軍政官の郡太守の職務を監察してまわる単なる「郡見回り役」となった

 

「於国中有如刺史」

 

「有如」前出する対象を指して「まるで~ようである」というに用いる。

 

「有如刺史」は前出の一大率がまるで刺史のようである>ということである。

 

従って、「国中」は“倭国中”ということではなく“中国中”である。

 

これを国中(倭国中)に一大率とは別官の「刺史のような者」がいると解する向きもあるが、そうであれば「有如刺史」は「有如刺史」となっていなければならない。後漢書皇后紀:「斉桓有如夫人者六人。<斉の桓公は夫人の如き者六人有り>

 

 

陳寿は魏志巻十五巻全体が刺史として名を顕した者の伝)の巻末評語で魏代の刺史について高く評価している。

 

評曰、自漢季以來、刺史統諸郡、賦政干外非若曩時司察之而巳太祖創基迄終魏業績、此皆其流稱譽有名實者也、咸精達事機、威恩兼著、故能粛齊萬里、見述干後也。」

 

評に曰く。漢の季(すえ)自り以来、刺史は諸郡を統べ、政を外に賦(し)く。嚢時(先の時代)の若く之を司察する而巳(のみ)に非ず。太祖が国家の基礎を創ってから魏の帝業が終わるまでの期間において、上の人々の評判はたてられ、名実ともに備わっていた。みな仕事の機微に精達し、威厳と恩恵がともに著われた。だからよく万里四方の地をひきしめととのえ、後世に語られたのである。

 

陳寿の「於中有如刺史<中国中に於ける刺史のようである>」の一文は、「特置」されたときの一大率晋代の刺史に比喩しての、「今の刺史は郡見回り役のようで何もしていない名誉職」と揶揄しているのである