『後漢書』:「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」
後漢書倭伝、中元二(57)年条中の「倭国之極南界也」は<倭国の極南界なり>と読まれ、この一文は「倭の奴国」の所在地についての范曄の注釈文とする三宅米吉説が通説である。
この時、「倭奴国」が光武帝から賜った印綬が、志賀島から出土した「漢委奴国王」の金印である。
三宅は「倭の奴国」を金印の出土した九州北岸部に比定するが、ここを「倭国の極南界」というのはあたらない。
このため三宅説は、范曄は魏志倭人伝に書かれている女王国より以北の奴国と、「此が女王の境界の盡きる所」とコメントされた其の余の旁国中の奴国を「取り違え」てしまったのだという。
しかし、「此が女王の境界の盡きる所」の奴国の南にある狗奴国も倭国である。
范曄がいかに「取り違え」てしまったとしても、奴国を「倭国の極南界」というのは当たらない。
三宅説を「無理なこじつけ」と批判する古田武彦も、この一文を「倭国の極南界なり」と読み、これを范曄の地理観とみている。
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古田武彦『失われた九州王朝』(極南界問題P45):「狗邪韓国は倭国の西北界(三国志では倭の北岸)である。だから倭地とは、その中心領域を朝鮮・対馬・壱岐の三海峡とする海峡国家だ。“倭国の中心国(三世紀の女王国)は、倭国の西北の入口から五千里(漢里では六倍の実体、2255キロメートルを指す)の「極南の地帯」に存在している”。これが後漢書倭伝の「倭国の極南界なり」という表現の背景をなす范曄の地理観だったのだ。」
三宅も古田もこの一文を范曄の注釈文とみているが、『後漢書』東夷伝の紀年条中に范曄の注釈文とみなせるものはない。
「倭国之極南界也」に続く「光武賜以印綬<光武、以って印綬を賜う>」の「以」は印綬下賜の理由である(『経傳釈詞』:「以、猶由也」)。
「倭国之極南界也」を范曄の決定句として読むと、何を以って印綬が賜れたのかという理由が書かれていないことになる。
「也」は決定をあらわす「なり」の意だけでなく、下を起こす辞の「や」の意もある。
「倭国之極南界也、光武賜以印綬」は<倭国の南界を極むるや、光武、以って印綬を賜う>と読む。
文意は、倭奴国の使者からの情報で、倭国の南界を極めることができたので、光武帝はその功績をもって印綬を下賜した、ということである。
補記:「使驛所傳極於此矣」
范曄は倭伝を「自朱儒東南行舩一年至裸國、黒齒國、使驛所傳極於此矣」という一文で結んでいる。
結句、「使駅所伝極於此矣」の「矣」は断定・決定などの意をあらわす「なり」の他に、「乎」と同じく疑問・反語の意をあらわす「か」の意味もある。
「使駅」とは、中元二年に奉貢朝賀した倭奴国の使者のことである。
「極」とは、その使駅が伝えてきた「倭国極南界也」の「極」のことである。
范曄は中元二年条の元資料に「倭国極南界也<倭国の南界を極めるや>」とある、倭奴国の使者の情報により極めた南界とは何処かを考えた。
魏志は「東南船行一年可至」という、東南の極めて遠い所に裸国・黒歯国があるとしている。
そこで范曄はこの裸国・黒歯国が極めた南界だろうと判断した。
范曄は裸国、黒歯国を指して「使駅の伝えるところの『極』は、ここなるか(そう、ここである)」としたのである。
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