2018年9月4日火曜日

14. 一大率と刺史

自女王以北、特置一大率検察、諸畏憚之、常治伊都國中有如刺史王遣使詣京都・方郡・諸韓国、及郡使倭、皆臨津。捜送文書賜遺之物、詣女王不得差錯。」

 

女王国より以北に、特に一大率を置き、検察せしむ。諸国は之を畏れ憚る。常は伊都国に治す。国中に於ける刺史の如くあり王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣り、郡使の倭国へ及ぶに、皆、臨津す。伝送の文書と賜遺の物を搜露し、女王に詣るに差錯するを得ず。

 

特置と常治

 

伊都国には中国の「刺史」のような「一大率」という官がいた。

 

一大率は常(常時)は伊都国を治所としているが、魏の京都(洛陽)や帯方郡あるいは諸韓国へ派遣された卑弥呼の遣使が帰倭したときや帯方郡使が来倭したときは、特(臨時)に邪馬壹国以北の諸国に治所を置いた。

 

卑弥呼の遣使や帯方郡使が携行した卑弥呼への文書や賜遺の物は、これらの国々で引き継がれて伝送(次々に送る)された。

 

一大率は伝送される文書や賜遺の物とともに諸国を巡り、卑弥呼の遣使や帯方郡使も皆、臨津(わたし場に至る)した。(『諸橋大漢和辞典』:【臨津(リンシン)】わたし場に至る。

 

は、必ずしも“船着き場”を意味するとは限らない。

 

水陸の交通に重要な地点を「津要」といい、要衝に設けて旅人を検査する関を「津関」という。

 

一大率の検察(考え調べる。閲する。吟味する。)とは、諸国の津(渡し場)で伝送されてきた文書や下賜品とを露(あらわに)し搜(かぞえ)て、差錯(間違い)がないようにすることである。

 

諸国一大率の検察を畏憚(おそれはばかること)した

 

諸国が畏れ憚ったのは、一大率の検察による「抜け荷」の発覚であろう。

 

刺史

 

刺史は郡県制のしかれた秦代に郡の監察を職務とする監御史に由来し、前漢の武帝が全国(九十八郡)を十三州に分けた時に新設された郡太守の上級官で中央から派遣された地方行政官で使君とも呼ばれた。

 

その州に属する各郡を巡回し郡太守の職務の監察を主務とした。その官秩は六百石であり、郡太守(秩二千石)よりも低かった。(『漢書百官公卿表:「武帝元封五(BC106)年、初置部刺史、掌奉詔條察州、秩六百石、員十三人。」)

 

しかし、郡太守の職務を監察するという任務の性格上しだいに権力を持ち、漢霊帝のときの混乱時に際し、牧(刺史の別名)の劉虞らが幽・益・予などの各州の反乱を鎮めた。

 

この時以来、軍官も兼帯するようになって一州の全権を掌握するに至り、後漢末には郡太守よりも上位になった。

 

魏晋の時代も州内の郡太守を統括する上級行政官として権力がさらに大きくなり、なかには都督諸軍事の資格も兼ねて、軍事、行政、司法を握る強力なものになった。

 

西晋の太康元(280)年、武帝は呉を平定し統一を果たしたのを期に、地方官の帝権に対する反乱を未然に防ぐことを意図して、刺史と軍官の兼帯は禁じ詔勅を出した。

 

しかし、太康282)年7月に平州刺史の鮮于嬰が鮮卑の侵入を撃退したり、その9月に呉降将の反乱で揚州が包囲されたので徐州刺史が出動し鎮圧したりと、まだ刺史が将軍として機能していた。

 

ために、刺史の職掌を漢制に戻そうとする詔勅は何度か出た。

 

陳寿の三国志執筆時の晋の太康年間後葉には完全に軍官の兼帯は禁じられ、漢の時代のように非軍政官の郡太守の職務を監察してまわる単なる「郡見回り役」となった

 

「於国中有如刺史」

 

「有如」前出する対象を指して「まるで~ようである」というに用いる。

 

「有如刺史」は前出の一大率がまるで刺史のようである>ということである。

 

従って、「国中」は“倭国中”ということではなく“中国中”である。

 

これを国中(倭国中)に一大率とは別官の「刺史のような者」がいると解する向きもあるが、そうであれば「有如刺史」は「有如刺史」となっていなければならない。後漢書皇后紀:「斉桓有如夫人者六人。<斉の桓公は夫人の如き者六人有り>

 

 

陳寿は魏志巻十五巻全体が刺史として名を顕した者の伝)の巻末評語で魏代の刺史について高く評価している。

 

評曰、自漢季以來、刺史統諸郡、賦政干外非若曩時司察之而巳太祖創基迄終魏業績、此皆其流稱譽有名實者也、咸精達事機、威恩兼著、故能粛齊萬里、見述干後也。」

 

評に曰く。漢の季(すえ)自り以来、刺史は諸郡を統べ、政を外に賦(し)く。嚢時(先の時代)の若く之を司察する而巳(のみ)に非ず。太祖が国家の基礎を創ってから魏の帝業が終わるまでの期間において、上の人々の評判はたてられ、名実ともに備わっていた。みな仕事の機微に精達し、威厳と恩恵がともに著われた。だからよく万里四方の地をひきしめととのえ、後世に語られたのである。

 

陳寿の「於中有如刺史<中国中に於ける刺史のようである>」の一文は、「特置」されたときの一大率晋代の刺史に比喩しての、「今の刺史は郡見回り役のようで何もしていない名誉職」と揶揄しているのである

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