魏志倭人伝は『前漢書』地理志燕地の条の「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。」を承けて、冒頭に「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。<倭人は帯方東南の大海の中に在り、山島に依って国邑を為す。>」と、倭人が国邑をなす地すなわち倭地について「山島」であると明記することに始まる。
魏志倭人伝を「春秋の筆法」で読み解く
2019年9月4日水曜日
山島と洲島
魏志倭人伝は『前漢書』地理志燕地の条の「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。」を承けて、冒頭に「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。<倭人は帯方東南の大海の中に在り、山島に依って国邑を為す。>」と、倭人が国邑をなす地すなわち倭地について「山島」であると明記することに始まる。
2018年9月25日火曜日
卑弥呼の死と壹与の朝貢の時期
女王卑弥呼の死と新女王壹與の朝貢は、倭人伝の最後の正始八年条に記されている。
[正始八年条]
(起文)其八年、太守王頎到官。
①倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼、素不和。
②遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃状。
③遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。
④卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
⑤更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
⑥復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。
⑦政等以檄告喩壹與。
⑧壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還。
(結文)因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。
正始八年条は王頎の「到官(官に到る)」で文を起こし、壹与の遣使の掖邪狗等の「詣臺(臺に詣る)」で文を結んでいる。
清の梁章鉅の撰になる『称謂録』に「天子の古称、官:魏晋六朝、官と称す」とあり、陳寿の時代、「官」は“天子”を意味した。
南宋の洪邁の撰になる『容斎続筆』に「晋宋の間、朝廷禁省を謂いて臺と為す。故に禁城を称して臺城と為し、官軍を臺軍と為す」とあり、陳寿の時代、「臺」は朝廷禁省すなわち“天子”を意味した。
起文の「到官」を正始八年に王頎が帯方太守として“郡治に着任した”と解する向きもあるが、王頎が玄菟太守から帯方太守に転任したのは前任の弓遵が、正始六年の帯方郡崎離営事件に端を発した韓国討伐の最中に戦死した正始七年五月のことである。
王頎の前任の弓遵は景初二年六月に卑弥呼の遣使として帯方郡に詣った難升米等を、配下に将送させて京都(洛陽)に詣らせた劉夏の後任として、正始元年に「建中校尉梯儁等を遣わし、詔書印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拜假し」ているが、弓遵の着任記事はない。
陳寿は倭人伝にみえる太守の着任について書くことはしていない。
正始八年条起文の「到官」は、王頎が天子のいる京都(洛陽)に到るということである。
王頎が「到官」した目的は正始八年条結文の掖邪狗等の「因(よ)って臺に詣る」にある。
「因って」とは“それによりて。事寄せて。便乗して。”という意味。
壹與の朝貢の使者として張政等を送り帯方郡へ詣った掖邪狗等は(正始八年条⑧)、正始八年の王頎の「到官」に「因って(それによりて。便乗して)臺(天子)に詣った」。
そして、王頎に将送されて天子に詣った掖邪狗等は、時の天子・少帝曹芳に壹與からの貢物である「男女生口三十人と貢(みつぎ)の白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を献上した」。
掖邪狗等を将送して官(天子)に到った王頎は、掖邪狗等を遣わした朝貢の主が卑弥呼ではなく壹與であることの経緯について、少帝曹芳に正始八年条①以下のように報告した。
①は「倭女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼は素(もと。はじめ)より不和(平和ではない。戦争状態にある)」ということで、これは女王・卑弥呼と男王・卑弥弓呼は卑弥呼が諸国に共立されて女王となった「素(もと。はじめ)」から「不和(戦争状態)」にあったということ。
②の「倭の載斯烏越等を遣わし、郡に詣り、相(たが)いに攻撃する状(状態。様子)を説く(説明する)」は、卑弥呼と卑弥弓呼の相方の戦況を説明するために、倭の載斯烏越等を帯方郡に遣わしたということ。
それでは何時、載斯烏越等は帯方郡に遣わされたのか。
③の「塞曹掾史・張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮(さずけあたえる)し、檄を為し之(難升米)に告諭す。」は、正始六年の少帝曹芳の「詔(みことのり)して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付(付託)して仮に授ける。」とある詔勅の執行記事である。
難升米に下賜された黄幢は軍事指揮や儀仗行列に用いられる旌旗のことであり、旌旗のうち特に黄色の軍旗(黄旗)は天子の旗を意味する。
正始六年に“軍事指揮権”を意味する黄幢を倭の難升米に下賜するとの詔勅が下されたのは、②の倭の載斯烏越等が帯方郡にいたり、時の帯方太守・弓遵に対して対狗奴国戦の戦況報告があったからである。
②の載斯烏越等が帯方郡に遣わされたのは正始六年のことであった。
倭の遣使記事には景初二年六月の「倭女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣り朝献するを求む。太守劉夏、吏を遣わし將送して京都に詣らしむ」や正始四年の「倭王、復た使大夫の伊聲耆・掖邪狗等八人を遣わし・・・」のように、使者を遣わした主格(倭女王・倭王)が書かれているが、②の遣使記事には載斯烏越等を遣わした主格が書かれていない。
②の載斯烏越等が帯方郡に遣わされた記事に主格(倭女王・倭王)が書かれていないのは、載斯烏越等を帯方郡に遣わしたのは「倭女王・倭王」ではなかったからである。
難升米は景初二年に明帝から卑弥呼の親魏倭王の金印紫綬に次ぐ、率善中郎将の銀印青綬を賜った倭国のナンバー2である。
ナンバー2の難升米に天子の詔書や黄幢が下賜されているのは、載斯烏越等が帯方郡に遣わされた正始六年には卑弥呼はすでに死んでいたからである。
④の「卑弥呼以死」を<卑弥呼、以って死す>と読むむきもあるが、こう読むと「以って」は卑弥呼の死の原因となるが、卑弥呼の死の原因についてはどこにも書かれていない。
魏志傅嘏伝の「今権以死、託孤於諸葛恪」は、裴注所引の司馬彪の『戦略』には「今権已死、託孤於諸葛恪」とあり、「以死」は「已死(すでに死す)」と読む。
④は「卑弥呼は以(すで)に死す。大いに冢(墳墓)を作る。徑(さしわたし)百余歩。葬を徇(めぐ)る者、奴婢百余人」。正始六年に来倭した張政の目撃談。
正始六年、少帝曹芳の詔勅の執行を目的に来倭した張政は、ナンバー2の難升米に黄幢を拝仮するとともに、「檄(めしぶみ)をなし之(難升米)に告諭した」。
この張政の檄(めしぶみ)は、女王卑弥呼の後継者に「難升米を倭王とする」ものであった。
⑤は、死んだ女王卑弥呼に「更えて男王(難升米)を立てしも、国中は服さず、更に互いに誅殺(殺し合い)し、当時1000人あまりが殺された」。
⑥は、女王卑弥呼の後継者に難升米を「男王」にしたところ国中が承服しなかったので、また「女王」に戻すべく「復た卑弥呼の宗女(一族の女)、13歳の壹与を王としたところ、国中は遂に平定した」。
⑦の「張政等は檄を以って壹与に告諭し」たとあるこの檄は、難升米に告諭した檄と同じもので、難升米に替えて「壹与を倭王とする」ものだった。
卑弥呼に更えてナンバー2の難升米を倭王とすることを主任務とした張政等は、(はからずも)壹与を倭の新女王としたことで倭国での任務は終了した。
⑧は、倭国での任務を終了した張政等は、倭国の新女王となった「壹与の遣わした倭大夫・率善中郎将の掖邪狗等に送られて帯方郡に還った」。
帯方郡に帰還した張政は時の太守王頎に、倭王が新女王・壹与になったことの経緯について報告した。
天子から帯方太守に付託された詔勅の執行の任務は、帯方太守から天子に復命することで完結する。
正始八年、王頎は張政からの報告を少帝曹芳に復命するため、張政等を送り帯方郡へ到った掖邪狗等を将送して上洛した。
陳寿は30巻からなる魏志の最後を、倭人伝の正始八年の壹與の朝貢記事で結んでいる。
〔魏志巻三十:評〕
「評曰。史漢著朝鮮兩越、東京撰録西羌。魏世匈奴遂衰、更有烏丸鮮卑、爰及東夷。使譯時通、記述隨事、豈常也哉。」
<評して曰く。『史記』『漢書』は朝鮮・両越を著し、東京(洛陽。『東観漢紀』)は西羌を撰録す。魏の世に匈奴は遂に衰え、更(かわ)って烏丸・鮮卑があらわれ、ここに東夷があらわれるにおよんだ。(東夷の倭国は)使譯を時どき通わせ、記述は事(その使訳の情報のまま)に随ったので、(倭人伝の記述は)豈(あに)常なるや(常であろうか、いや常ではない)。>
2018年9月19日水曜日
「倭国大乱」の時期
「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼。」
<其の国(=女王国)は、本は(=卑弥呼を王として共立する以前は)亦(=中国と同じように)男子をもって王としていた。(今から)七・八十年前、倭国は乱れ、相い攻伐し年を歴る、乃ち(=そこで乱を収めるために諸国は)共に一女子を立て王とした。名を卑弥呼という。>
いわゆる倭国大乱(倭人伝は「倭国乱」)の時期については諸説ある。
一つは、『後漢書』の「桓霊間、倭国大乱、更相攻伐、歴年無主」である。
『隋書』も「桓霊之間、其国大乱、遞相攻伐、歴年無主」とする。
「桓霊」とは後漢の桓帝(147-167)と霊帝(168-189)のことであり、桓帝と霊帝の治世の期間は150~180年頃に相当する。
一つは、『梁書』の「漢霊帝光和中、倭国乱、相攻伐歴年」と『北史』の「靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐、歴年無王」である。
霊帝の光和は元(178)年から六(183)年であるから、霊帝の光和中は180年頃となる。
一つは、『晋書』の「漢末、倭人乱、攻伐不定」である。
後漢の滅亡は220年であるから、漢末は220年頃となる。
『後漢書』がいう「桓霊間」は、『後漢書』に「安帝永初元(107)年、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見。」とある倭国王帥升から7~80年後に相当する。
『後漢書』の范曄は倭国の乱の時期を言う「住七八十年」を<住(とど)まること七八十年>と読んで、これを「其国本亦以男子為王(その国も元は又、男子を以て王と為す)」とある男王の在位期間と見たのではなかろうか。
しかし、一人の王の在位期間が7~80年というのは如何にも長すぎる。
陳寿は東夷伝の執筆対象時期について、『魏志』烏丸伝の序文に「烏丸・鮮卑は即ち古の所謂東胡なり。其の習俗、前事は漢記を撰する者、已に録してこれを載せたり。故にただ漢末魏初以来を挙げ、以って四夷の変に備える」としている。
『釈文』に「住、或作往」とあり、「往」には「むかし、いにしえ、又、すぎ去ったこと」という意がある。
「住七八十年」は“今を去ること七八十年”ということで、倭国の乱は陳寿の三国志執筆時の晋の太康年間(280-289)からみて7~80年前の漢末のことであった。
歴年続いた倭国大乱は、互いに争っていた諸国の王が卑弥呼を新しい王に共立することによって収まった。
倭国大乱とは卑弥呼以前の男王の死に伴う諸国の王がその王位継承権をめぐっての争いであった。
2018年9月8日土曜日
卑弥呼の墓:「径百余歩」
<大いに冢(土を高く盛った墳墓)を作る、径(円形のさしわたし)、百余歩。>
秦以前の古代中国に、足底長を単位とする「歩」があった。
陳寿は倭人伝の里単位を、1里=75mとしている。
1里は300歩であるから(『孔子家語』:「周制三百歩為里」)、1歩は25㎝となる。
陳寿が倭人伝に「短里」を用いているのは、師の教えに従ってのことだろう。
卑弥呼の墓の「径百余歩」は、直径25mほどの円墳である。
なぜ、足底長が「歩」の単位となったのだろうか。
『芸文類聚』帝王部一帝夏禹に引用された『帝王世紀』に「伯禹夏后氏、姒姓也、(中略)乃労身渉勤、不重径尺之璧、而愛日之寸陰、手足胼胝、故世伝禹病偏枯、足不相過、至今巫称禹歩是也」とある。
<伯禹夏后氏、姒姓なり。(中略)乃ち身を労して渉勤す。径尺の璧を重しとせずして、日の寸陰を愛み、手足胼胝す。故に世よ禹、偏枯を病み、足相い過らずと伝う。今に至りて巫の禹歩を称るは是れなり。>
古代中国の治水の帝王である夏王朝の祖・禹は長年にわたり全国の河川の流れを記録するために地形や海抜を測量したために、過労で偏枯(半身不随)になったという。
この「偏枯」という半身不随でよろめくように歩く「禹」の歩きかた真似たとされる道教の儀式的歩行方法を、巫が「禹歩」と称していたことが述べられている。
<禹歩の法、前に左を挙げ、右左を過り、左右に就く。次に右を挙げ、左右を過り、右左に就く。次に左を挙げ、右左を過り、左右に就く。此の如く三歩せば、満二丈一尺に当たり、後に九跡有り>
「左就右」は左足の爪先に右足の踵を就けるということ、「右就左」は右足の爪先に左足の踵を就けるということであるから、「禹歩」は元来は測量のための歩測の仕方だったのではなかろうか。
禹が左右の足の爪先と踵を交互に接触させながら距離を測る様が、半身不随のように小股でひょこひょこ歩く偏枯のように見えたのであろう。
張家山漢簡『引書』に「禹歩すれば以て股間を利す」とある。
纏足された女性が踵と爪先を接するように、小股でひょこひょこ歩く様を「禹歩」と呼ぶ。
女性に纏足をするのは股間にいい効果をもたらすと考えられたのだろう。
人足(足底長)を基礎とした単位を「歩」と称するのは、禹が距離を測る「歩測」に用いたからである。
(始皇帝の)二十六年、皇帝は尽(ことごと)く天下を并兼(へいけん)し、諸侯や黔首(けんしゅ)は大いに安らかとなり、号を立てて「皇帝」と称した。そこで丞相の隗状(かいじょう)と王綰(おうわん)に詔し、法度量の則(決まりごと)が『一』ではなく歉疑(けんぎ)なるものは、みな明らかにしてこれを『一』にさせた。