2019年9月4日水曜日

山島と洲島


1.倭地

魏志倭人伝は『前漢書』地理志燕地の条の「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。」を承けて、冒頭に「倭人在帯方東南大海之中為国。<倭人は帯方東南大海り、って国を為す。>と、倭人が国邑をなす地すなわち倭地について「山島」であると明記することに始まる。

「山島」とは朝鮮半島と九州島との間の対馬海峡に千里という距離で等間隔で浮かぶ、島土の89%を山地が占め対馬(対海国)や標高212.8mの岳の辻を擁する壱岐(一大国)のように高い山のある島のことである。

そして又、倭地については風俗記事の最後に「参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千。」ともある。

「洲島」とは川の中で土砂が堆積してできた中州状の島のことで、海島の場合、例えばサンゴ礁が海底隆起によったり山島が長年月の間に崩落して形成された平べったい島のことである。

「絶在海中とは絶海の孤島”という表現があるように、陸を遠く離れた海の彼方の中にあるということ

或絶或連とは、いくつもの島々があるものは遠く、あるものは近く連なっているいるということ。

中国から見て絶在海中陸を遠く離れた海の彼方)に洲島(中州状の島)が或絶或連(遠く或いは近く連なる)しているのは、東シナ海に連なる南西諸島以外にみられない。

「周旋」とは遠く或いは近く連なっている島々の上を“隅々まで行き渡る”ということ。

魏志倭人伝の里単位は1里=75mであり、「五千」は約375kmとなる。

ちなみに南西諸島のうち奄美群島の端から沖縄諸島の端までは約350kmであり、それはほぼ浙江省の東に位置する。

2.会稽海外

古来、浙江省の東の海は「会稽海外」と称された。

前漢書地理志呉地の条に「會稽海外有東人、分爲二十餘國、以歳時來獻見云。」とある。

魏志倭人伝には「鯷人」に関する記述がないが、魏志倭人伝を参考にしている『後漢書』は倭伝の最後を「會稽海外有東人、分爲二十餘國。又有夷洲及亶洲。傳言、秦始皇帝遣方士徐福、將童男女數千人、入海求蓬莱、神仙不得。徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市、會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至。亶洲者所在絶遠、不可往來。<会稽海外に東人あり、分かれて二十余国を為す。また、夷洲および亶洲あり。伝えて言う、始皇帝は方士徐福を遣わし、童男女数千人を将いて、海に入り蓬莱を求めしも、神仙を得ず。徐福は誅されるのを畏れて敢えて還らず、遂にこの洲に止まり、世世相承し、数万家あり。人民、時に会稽に至り市す、会稽東冶県人、海に入り、風に遭いて行きて、流い移りて至る有り』と。亶洲は在るところ絶遠にして、往すべからず>」としている。

後漢書の「會稽海外有東人、分爲二十餘國」は、勿論、『前漢書地理志呉地の条からの引用であるが、「又有夷洲及亶洲…」以下は『呉志呉主権伝の「黄龍二(230)…、遣將軍衛温諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中長老傳言、秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、求蓬神山及仙藥、止此不還。世相承有數萬家、其上人民、時有至會稽貨布、會稽東縣人海行、亦有遭風流移至亶洲者。所在遠、卒不可得至、但得夷洲數千人還。<(孫権は)将軍衛、諸葛直を遣し甲士一万人をいて海に浮かび夷洲及び亶洲を求めしむ。亶洲は海中に在り。長老、伝えて言う、『秦の始皇帝方士徐福を遣し童男童女千人をいて海に入り、蓬莱・神山及び仙を求めしむるも、此の洲に止まりて還らず。世(代々)、(あ)い承(う)け数万家有り。其の上の人民、時に有りて会稽に至り貨布す。会稽の人、海に行き、また風に遭い流移して亶洲に至る者有りと。在遠にして卒を得る至るべからずただ夷洲の千人を得て還る。>」からの引用である。

『後漢書』は陳寿の言う会稽県」を「会稽東冶県」としているが、会稽海外には倭のの二十余国と夷洲亶洲が存在するとしている。

三国時代は戦乱、飢饉、疫病の流行などで人口が激減し、どの陣営も兵士不足に悩まされた。

卑弥呼が魏に使節をおくる8年前の黄龍二(230)、呉の孫権は兵力の不足を現地民の「人狩り」で補うため、将軍の温と諸葛直に兵士1万人の船団を率いさせ、会稽から夷洲および亶洲に派遣した。

このうち、「亶洲在海中」「所在絶遠」とある“絶在海中”の亶洲は沖縄ではなかろうか。(卒数千人を得て還るとある夷洲は台湾か?)

陳寿が『前漢書地理志呉地の条の「会稽海外」を認識しているのは明らかである。

『魏志』に鯷人の記述がないのは、「問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千」が、鯷人ついてのことだからではなかろうか。

3.参問

「問う」は、知りたいことををたずねる。聞く。質問する。(大辞林)

「参る」は、行く、来るの謙譲語目上の人や、身分の高い人に対して用いる。(角川古語辞典)

しからば倭地を参問問い参る)したのは誰か?

『後漢書』に「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」とある。

後漢の中元二(57)、光武帝は倭奴国の使者の情報により、倭国の南界を極めることができた功績により倭奴国に印綬を下賜した。

倭地を参問問い参る)するとは、光武帝が倭奴国の使者に“倭国の領域を質問なさるに” いった意味合いではなかろうか。

倭奴国の使者の情報により倭国の南界を極めたとは、九州のさらに南の南西諸島のの二十余国も倭国、すなわち倭地(亶洲)だと判明したということではなかろうか。

『倭地を参するに、絶在海中陸を遠く離れた海の彼方)の洲島(中州状の島)の上を、或絶或連(遠く或いは近く連なる)、周旋(隅々まで行き渡る)すること五千余里可(ばか)り』

清の胡渭になる『禹貢錐指』に「、後漢謂之大倭國、即今日本。」とある。

2018年9月25日火曜日

卑弥呼の死と壹与の朝貢の時期

女王卑弥呼の死と新女王壹與の朝貢は、倭人伝の最後の正始八年条に記されている。


[正始八年条]

(起文)其八年、太守王到官

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼、素不和。

遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃状。

遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。

卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。

更立男王、國中不服更相誅殺、當時殺千餘人。

復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。

政等以檄告喩壹與。

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。

(結文)詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

 

正始八年条は王の「到官(官に到る)」で文を起こし、壹与の遣使の掖邪狗等の「詣臺(臺に詣る)で文を結んでいる。

清の梁章鉅の撰になる『称謂録』に「天子の古、官:魏晋六朝と称すとあり、陳寿の時代、「官天子”を意味した。

宋の洪邁の撰になる『容斎続筆』に「晋宋の間、朝廷禁省を謂いて臺と為す。故に禁城を称して臺城と為し、官軍を臺軍と為す」とあり、陳寿の時代、「臺」は朝廷禁省すなわち“天子”を意味した。

起文の「到官」を正始八年が帯方太守として“郡治に着任したと解する向きもあるが、頎が玄菟太守から帯方太守に転任したのは前任の弓遵が、正始六年の帯方郡崎離営事件に端を発した韓国討伐の最中に戦死し正始七年五月のことである。

頎の前任の弓遵は景初二年六月に卑弥呼の遣使として帯方郡に詣った難升米等を、配下に将送させて京都(洛陽)に詣らせ劉夏の後任として、正始元年に「建中校尉梯儁等を遣わし、詔書印綬を奉じて倭に詣り、倭王に拜假し」ているが、弓遵の着任記事はない。

陳寿は倭人伝にみえる太守の着任について書くことはしていない。

正始八年条起文の「到官」は、頎が天子のいる京都(洛陽)に到るということである。

頎が「到官」した目的は正始八年条結文の掖邪狗等の「因(よ)って臺る」にある。

「因って」とは“それによりて。事寄せて便乗して。”という意味

壹與の朝貢の使者として張政等を送り帯方郡へ詣った掖邪狗等は(正始八年条⑧)、正始八年到官に「因って(それによりて。便乗して)(天子)に詣った」。

そして、王頎に将送されて天子にった掖邪狗等は、時の天子・少帝芳に壹與からの貢物である男女生口三十人と貢(みつぎ)の白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を献上した」。

掖邪狗等を将送して官(天子)に到った頎は、掖邪狗等を遣わした朝貢の主が卑弥呼ではなく壹與であることの経緯について、少帝芳に正始八年条①以下のように報告した。

①は「倭女王・卑狗奴国の男王・卑弓呼(もと。はじめ)より不(平和ではない戦争状態にある)」ということで、これは女王・卑弥呼と男王・弓呼は卑弥呼が諸国に共立されて女王となった「素(もと。はじめ)」から「不和(戦争状態)」にあったということ。

②の「倭の載斯烏越等を遣わし、郡に詣り、相(たが)いに攻撃する状(状態。様子)を説く(説明する)」は、呼と卑弓呼の相方の戦況を説明するために、倭の載斯烏越等を帯方郡に遣わしたということ。

それでは何時、載斯烏越等は帯方郡に遣わされたのか。

③の「塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書黄幢(もたら)し、難升米に拝仮(さずけあたえる)し、檄を為し難升米)に告諭す。」は、正始六年少帝曹芳の「(みことのり)して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付(付託)して仮ける。」とある詔勅の執行記事である。

難升米に下賜された黄幢は軍事指揮や儀仗行列に用いられる旌旗のことであり、旌旗のうち特に黄色の軍旗(黄旗)は天子の旗を意味する。

正始六年に“軍事指揮権”を意味する黄幢倭の難升米に下賜するとの詔勅が下されたのは、②の倭の載斯烏越等が帯方郡にいたり、時の帯方太守・弓遵に対して対狗奴国戦の戦況報告があったからである。

②の載斯烏越等が帯方郡に遣わされたのは正始六年のことであった。

倭の遣使記事には景初二年六月の「倭女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣り朝献するを求む。太守劉夏、吏を遣わし將送して京都に詣らしむ」正始四年の「倭王、復た使大夫の伊聲耆掖邪狗等八人を遣わし・・・」のように、使者を遣わした主格(倭女王・倭王)が書かれているが、②の遣使記事には載斯烏越等を遣わした主格が書かれていない

②の載斯烏越等が帯方郡に遣わされた記事に主倭女王・倭王)が書かれていないのは、載斯烏越等を帯方郡に遣わしたのは「倭女王・倭王」ではなかったからである。

難升米は景初二年に明帝から卑弥呼の親魏倭王の金印紫綬に次ぐ、率善中郎将の銀印青綬を賜った倭国のナンバー2である。

ナンバー2の難升米に天子の詔書黄幢が下賜されているのは、載斯烏越等が帯方郡に遣わされた正始六年には卑弥呼はすでに死んでいたからである。

④の「卑呼以死」を<卑弥呼、以って死す>と読むむきもあるが、こう読むと「以って」は卑弥呼の死の原因となるが、卑弥呼の死の原因についてはどこにも書かれていない。

魏志傅嘏伝の「今権以死、託孤於諸葛恪」は、所引の司馬彪の『戦略』には「今権已死、託孤於諸葛恪」とあり、「以死」「已死(すでに死す)と読む

④は「卑弥呼は以(すで)に死す。大いに冢(墳墓)を作る。徑(さしわたし)百余歩。葬を徇(めぐ)る者、奴婢百余人」。正始六年に来倭した張政の目撃談。

正始六年、少帝曹芳の詔勅の執行を目的に来倭した張政は、ナンバー2の難升米に黄幢を拝仮するとともに、(めしぶみ)をなし難升米)に諭した」。

この張政(めしぶみ)は、女王卑弥呼の後継者に難升米を倭王とする」ものであった。

⑤は、死んだ女王卑弥呼に「更えて男王(難升米)を立てしも、国中は服さず、更に互いに誅殺(殺し合い)し、当時1000人あまりが殺された」。

⑥は、女王卑弥呼の後継者に難升米を「男王」にしたところ国中が承服しなかったので、また「女王」に戻すべく「復た卑弥呼の宗女(一族の女)、13歳の与を王としたところ、国中は遂に平定した」。

⑦の「張政等を以って与に告諭し」たとあるこの檄は、難升米告諭した檄と同じもので、難升米に替えて「を倭王とする」ものだった。

卑弥呼に更えてナンバー2の難升米を倭王とすることを主任務とした張政等は、(はからずも)与を倭の新女王としたことで倭国での任務は終了した。

⑧は、倭国での任務を終了した張政等は、倭国の新女王となった「与の遣わした倭大夫・率善中郎将の掖邪狗等に送られて帯方郡に還った」。

帯方郡に帰還した張政は時の太守頎に、倭王が新女王・与になったことの経緯について報告した。

天子から帯方太守に付託された詔勅の執行の任務は、帯方太守から天子復命することで完結する。

正始八年頎は張政からの報告を少帝曹芳に復命するため、張政等を送り帯方郡へ到った掖邪狗等を将送して上洛した。

 

陳寿は30巻からなる魏志の最後を、倭人伝の正始八年の壹與の朝貢記事で結んでいる。

〔魏志巻三十:評〕

評曰。史漢著朝鮮兩越、東京撰録西羌。魏世匈奴遂衰、更有烏丸鮮卑、爰及東夷。使譯時通、記述隨事、豈常也哉。

<評して曰く。史記』『漢書は朝鮮・両越を著し、東京(洛陽。東観漢紀)は西羌を撰録す。魏の世に匈奴は遂に衰え、更(かわ)って烏丸・鮮卑があらわれ、ここに東夷があらわれるにおよんだ。(東夷の倭国は)使譯を時どき通わせ、記述は事(その使訳の情報のまま)に随ったので、(倭人伝の記述は)豈(あに)常なるや(常であろうか、いや常ではない)。>

 

2018年9月19日水曜日

「倭国大乱」の時期

本亦以男子住七八十年、国乱、相攻伐歴年乃共立一女子王、名曰。」

<其の国(=女王国)は、本は(卑弥呼を王として共立する以前は)亦(中国と同じように)男子をもって王としていた。(今から)八十年前、倭国は乱れ、相い攻伐る、乃ち(=そこで乱を収めるために諸国は)共に一女子を立て王とした。名を卑弥呼という。>

 

いわゆる倭国大乱(倭人伝は「倭国乱」)の時期については諸説ある。

一つは、『後漢書』の、倭、更相攻伐、歴年無主」である

『隋書』も「桓霊之間、其国大乱、遞相攻伐、歴年無主」とする。

「桓霊」とは後漢の桓帝(147-167)と霊帝(168-189)のことであり、桓帝と霊帝の治世の期間は150180年頃に相当する。

 一つは、『梁書』の「帝光和中、倭国乱、相攻伐歴年」と『北史』の「靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐、歴年無王」である。

霊帝の光和は元(178)年から六(183)年であるから、霊帝の光和中は180年頃となる。

一つは、『晋』の「漢末、倭人、攻伐不定」である。

後漢の滅亡は220年であるから、漢末は220年頃となる。


『後漢書』がいう「間」は、後漢書』に安帝永初元(107)年、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見。」とある倭国王帥升から780年後に相当する。

後漢書』の范曄は倭国の乱の時期を言う「住七八十年」を<(とど)まること七八十年>と読んで、これを本亦以男子王(その国も元は又、男子を以て王と為す)」とある男王の在位期間と見たのではなかろうか。

しかし、一人の王の在位期間が780年というのは如何にも長すぎる。


陳寿は東夷伝の執筆対象時期について、『魏志』烏丸伝の序文に「烏丸・鮮卑は即ち古の所謂東胡なり。其の習俗、前事は漢記を撰する者、已に録してこれを載せたり。故にただ漢末魏初以来を挙げ、以って四夷の変に備える」としている。

『釈文』に「住、或作往」とあり、「往」は「むかし、いにしえ、又、すぎ去ったこと」という意ある。

「住七八十年」は“今を去ること七八十年”ということで、倭国の乱陳寿の三国志執筆時の晋の太康年間(280-289)からみて780年前の漢末のことであった。

歴年続いた倭国大乱は、互いに争っていた諸国の王が卑弥呼を新しい王に共立することによって収まった。

倭国大乱とは卑弥呼以前の男王の死に伴う諸国の王がその王位継承権をめぐっての争いであった。

 

2018年9月8日土曜日

卑弥呼の墓:「径百余歩」


大作冢、。」
いに(土を高く盛った墳墓)を(円形のさしわたし)。>


1.歩の単位

長さの単位の諸度量は、人体の部位を基礎としている。(『説文解字』:「周制、寸・尺・咫・尋・常・仞、諸度量、皆以人之為法」

同じ長さの単位である「歩」は、歩測に用いた人の歩く歩幅を基礎としているという。
そして、その歩幅の長さは秦の始皇帝が「六尺為歩」と定めた1歩=6尺とされる。

講談社漢和辞典の度量衡換算表によると秦漢の時代の1尺は22.5㎝なので、1歩の歩幅は135㎝となる。
人の歩幅の1歩が135㎝というのは、いかに背の高い人でも長すぎる。

このため、古代中国では今日でいう右足(または左足)を踏み出した一跨ぎの1歩をと称し、跨ぎの2跬を1歩としたという。(小爾雅』:「跬、一足也、倍跬謂之歩」)

しかし、歩数を数えるのに2跬を1歩、4跬を2歩と換算しながら数えていくのは、たとえれば鶴の群れを数えるのに脚の本数を数えてから2で割るようなものである

小爾雅作者も作られた時代も不明現存の小爾雅』は魏晋時代の偽作とする説ある

の中国は普通に、1歩は「一跨ぎ」である
小爾雅、秦の始皇帝の「六尺為歩」の後付け解釈ではなかろうか。

秦の始皇帝が「六尺為歩」と定めた経緯について、『史記秦始皇本紀に次のようにある。

始皇推終始五德之傳、以為周得火德、秦代周、德從所不勝。方今水德之始、改年始、朝賀皆自十月朔。衣服旄旌節旗皆上黑。數以六為紀、符法冠皆六寸、而輿六尺、六尺為歩、乘六馬【注記】。更名河曰德水、以為水德之始。剛毅房深、事皆決於法、刻削毋仁恩和義、然後合五德之數。於是急法、久者不赦。

<始皇、終始五徳の傳を推し、以為へらく、『周は火徳を得たり、秦、周に代わる。徳は勝たざる所に従う。方今は水徳の始めなり』と。年始を改め、朝賀、皆、十月朔を自(もち)ふ。衣服・旄旌・節旗、皆、黒きを上(たっと)ぶ。数は六を以て紀と為す。符・法冠は、皆六寸、而して輿は六尺、六尺を歩と為し、六馬に乗る。更めて河(黄河)を名づけて徳水と曰ひ、以て水徳の始めと為す。剛毅・房深、事皆法に決し、刻削して仁恩・和義毋(な)く、然る後五徳の数に合す。是に於て法を急にし、久しきは赦さず。>

【注記】:【集解張晏曰「水北方黑、終數六、故以六寸為符、六尺為歩」。瓉「水數六、故以六為名」。譙周曰「歩以人足為數、非獨秦制然」索隱管子司馬法皆云六尺為歩、周以為歩以人足、非獨秦制。又按、禮記王制曰「古者八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩」歩之尺數亦不同。

注記にある裴駰の『史記集解』にいう譙は陳寿の学問の師である。(『晋寿伝:「陳寿字承祚、巴西安漢人也。少好師事同郡、仕蜀為閣令史」

は<歩は、人足を以て数と為す。独り秦制のみ然るに非ずいう。

は、長さの単位の「歩」は秦制「六尺為歩」だけではない言っているのだから、譙が言う「人足」は人の歩幅のことではなくのことである。

『史記索隱』は司馬貞の地の文で<管子や司馬法も皆、「六尺為歩」だと云うのに、周は思うに、歩は人足(足長)を基礎とした単位であることを理由に、独り(周だけは)秦制の「六尺為歩」は非であるとしたのだろう>言っている。

秦以前の古代中国に長を単位とする「歩」があった。

陳寿は倭人伝の里単位を、1里=75mとしている。

1里は300歩であるから(『孔子家語』:「周制三百歩為里」)、1歩は25㎝となる。

陳寿が倭人伝に「短里」を用いているのは、師の教えに従ってのことだろう。

卑弥呼の墓の「径百余歩直径25ほどの円墳である

2.禹歩

なぜ、足底長が「歩」の単位となったのだろうか。 

『芸文類聚』帝王部一帝夏禹に引用された『帝王世紀』に「伯禹夏后氏、姒姓也、(中略)乃労身渉勤、不重径尺之璧、而愛日之寸陰、手足胼胝、故世伝禹病偏枯、足不相過、至今巫称禹歩是也」とある。

<伯禹夏后氏、姒姓なり。(中略)乃ち身を労して渉勤す。径尺の璧を重しとせずして、日の寸陰を愛み、手足胼胝す。故に世よ禹、偏枯を病み、足相い過らずと伝う。今に至りて巫の禹歩を称るは是れなり。>

古代中国の治水の帝王である夏王朝の祖・禹は長年にわたり全国の河川の流れを記録するために地形や海抜を測量したために、過労で偏枯(半身不随)になったという。

この「偏枯」という半身不随でよろめくように歩く「禹」の歩きかた真似たとされる道教の儀式的歩行方法を、巫が「禹歩」と称していたことが述べられている。

 この「禹歩の歩き方(ステップ)について東晋葛洪の著した抱朴子仙薬篇に「禹歩法、前挙左、右過左、左就右、次挙右、左過右、右就左、次挙左、右過左、左就右、如此三歩、当満二丈一尺、後有九跡」とあ

<禹歩の法、前に左を挙げ、右左を過り、左右に就く。次に右を挙げ、左右を過り、右左に就く。次に左を挙げ、右左を過り、左右に就く。此の如く三歩せば、満二丈一尺に当たり、後に九跡有り>

左就右」は左足の爪先に右足のを就けるということ右就左」は足の爪先に左足のを就けるということであるから、禹歩」は元来は測量のための歩測の仕方だったのではなかろうか。

左右の足の爪先と踵を交互に接触させながら距離を測る様が、半身不随のように小股でひょこひょこ歩く偏枯のように見えたのであろう。

張家山漢簡『引書』に「禹歩すれば以て股間を利す」とある。

纏足された女性が踵と爪先を接するように、小股でひょこひょこ歩く様を「禹歩」と呼ぶ。

女性に纏足をするのは股間にいい効果をもたらすと考えられたのだろう。 

人足()を基礎とした単位を「歩」と称するのは、距離を測る「歩測」に用いたからである。

3.「歩」と「尺」の換算表

周の時代の尺には「」と呼ばれる8寸の小尺と10寸の大尺があったという。(『説文』:「、中婦人手長八寸、謂之咫、从尺只聲」「 十寸也。人手卻十分動脈爲寸口。十寸爲

しかし、一つの時代、社会に長さの違う二つの「尺」があったら混乱を招いてしまうだろう。

元来、10分を1寸、10寸を1尺、10尺を1丈とする丈尺の系統と6尺を1歩、300歩を1里とする歩里の系統は独立した別系統の単位である

「尺十寸也」の寸の単位となった<人の手の10分(1寸)を(しりぞ)くところの動脈寸口となす>とある「寸口」とは、脈を計るときの“手首の脈どころ”のことである。

脈は親指の第一関節の“腹”で計るのだから、“手首の脈どころ”は親指の第一関節の長さである。

誰もが親指の第一関節の長さは23㎝であろうから、中を採っても大尺は2425㎝となる。

説文』に「」は中婦人(普通の女性)の「手長」が単位とあるが、普通の女性の親指と薬指を広げた幅の長さは20㎝前後である。

実は、周の大尺が足底長を単位とした「歩」で、小尺()が周の「尺」ではなかろうか。

長さの単位には二系統が存在したのであるから、二系統間に「換算表」が存在するのは必然である。

仮に周の小尺()の20㎝を「尺」とし、周の大尺の24㎝を「歩」として、その換算比率をみると6尺5歩となる。

周の時代には、尺と歩の換算率は6尺=5歩であった。

紀元前222年、中国全土を統一した秦の始皇帝終始五徳説の水徳の数の六を尊ぶ水行をおこなった。(史記秦始皇本紀:「数以六為紀、符法冠皆六寸、而輿六尺、六尺為歩、六馬)

始皇帝の度量衡の統一を記した「権量銘」に「廿六年、皇帝盡并兼天下、諸侯黔首大安、立號爲皇帝。乃詔丞相状綰、法度量則、不壹歉疑者、皆明壹之。」とある。

(始皇帝の)二十六年、皇帝は尽(ことごと)く天下を并兼(へいけん)し、諸侯や黔首(けんしゅ)は大いに安らかとなり、号を立てて「皇帝」と称した。そこで丞相の隗状(かいじょう)と王綰(おうわん)に詔し、法度量の則(決まりごと)が『一』ではなく歉疑(けんぎ)なるものは、みな明らかにしてこれを『一』にさせた。

始皇帝の換算比率(六尺為歩)は、周制の換算比率(6尺=5歩)を、六を尊ぶ水徳によって「6尺=1歩」としたのだろう。

このため、秦制の歩の単位は周制の5倍となった。