〇「倭」の字音
辞書には「倭」の字音は呉音読みでも漢音読みでも「ワ」と「イ」の両読みとある。
日本語の漢字音に呉音と漢音があるのは漢字の伝来が数次にわたっていたからである。
中国語の漢字音は上古音でも中古音でも一字一音節が原則であり、一つの漢字が完全に違う発音を複数もつということはない。(例外的に同じ文字でも動詞か名詞かで発音が違うことはある。銀行の行〈北京語hang,広東語hong〉と「行く、行う」のxing。)
わが国には上古音である呉音が先に伝来し、漢音は唐の時代に遣唐使が持ち帰った中古音である。
『詩経』小雅四牡之詩の「四牡騑騑、周道倭遅」の倭遅は(イチ)と読む。
『諸橋大漢和辞典』には他に「イ」と読む例として、地名の倭赤(イセキ)、容姿の醜い女性をさす倭傀(イキ)、切り下げ髪の意の倭堕(イダ)、なよなよしたさまをいう倭移(イイ)、遠回りをいう倭迤(イイ)などがある。
「倭」は両読みではなく「イ」が呉音(上古音)で、「ワ」が漢音(中古音)ではなかろうか。
後漢の許慎になる最古の部首別漢字字典である『説文解字』(和帝の永元十二(100)年成立)に、「倭、順兒(すなお)、人に从(したが)い、委(イ)の声、詩にいわく、周道倭遅」とあり、「倭」は「委(イ)」と発音するとある。
『説文解字』は「倭」も委音十四字の一つとしており、「倭」が上古音で(ワ)と発音されていた形跡はない。
『前漢書』の「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」に対して、上古音の時代の魏の如淳、晋の臣瓉と中古音の時代の唐の顔師古が【如淳曰:如墨委面、在帶方東南萬里。臣瓚曰:倭是國名、不謂用墨、故謂之委也。師古曰:如淳云如墨委面、蓋音委字耳、此音非也。倭音一戈反、今猶有倭國。】と注を付けている。
魏の如淳は倭人というのは「墨刑のように委面(イ面:顔の入れ墨)をしている」からだとしている。
晋の臣瓉は如淳の見解に対して「倭は国名であって、入れ墨をしているからいうのではない、故(ふる)くは之(倭)を委(イ)といったのだ)」としている。
唐の顔師古も如淳の見解に対して「如淳が倭の由来を墨刑のように委(イ)面していると云うのは、委字の音のみからだろうが、この音(イ)は非なり)」としたうえで、「倭音一戈反」と音注を付けている。
この「A 音 B・C
反」という音注は漢字の音節(字音)表記法で反切法と呼ばれ、A 字の音は、B字の声母と、C字の韻尾を結合した音ということを表している。
「倭音一戈反」とは、倭の音は一(i-et)と戈(k-ua)の反(i+ua)の「iuaワ」であるということ。
飛鳥藤原宮跡から出土した木簡に伊委之(イワシ)とみえる。
他に、阿遅(アジ)阿由(アユ)伊加(イカ)伊貝(イガヒ)伊伎須(イギス)河鬼(カキ)加麻須(カマス)久己利(クコリ)黒多比(クロタヒ)佐米(サメ)須ゝ支(スズキ)多比(タヒ)知奴(チヌ)津備(ツビ)尓支米(ニギメ)乃利(ノリ)布奈(フナ)富也(ホヤ)弥留(ミル)等。
藤原宮は持統天皇八(694)年から元明天皇が平城宮に遷る和銅三(710)年まで用いられたから、木簡には遣唐使の持ち帰った唐代の中古音が用いられている筈。
顔師古の唐の時代の中古音では倭は「ワ」と発音するように変化していた。
〇「奴」の字音
辞書には「奴」の字音は呉音(ヌ)、漢音(ド)とあるが、逆ではなかろうか。
普通は清濁が対立するときは奴隷・匈奴のように濁っているのが呉音(上古音)、奴婢・奴僕のように濁っていないのが漢音(中古音)である。
現代中国の標準語(普通話、国語)である北京音には音韻としての濁音がなく、漢音(中古音)である唐の長安の音とかなり近いという。
現代北京語(拼音)では「奴」は「NÚ」と発音する。
藤原宮跡から出土した木簡に知奴(チヌ)とある。
「奴」は漢音(中古音)では「ヌ」と発音されていた。
諸橋大漢和辞典に「奴」で形声する文字(努怒呶孥帑弩駑・・・)のうち、「帑」は「ト」と読むとある。
『説文解字』に「帑、金幣所蔵也、从巾奴声」とあり、「奴の声」とは「ト」と発音するということ。
漢字は偏が相違するだけで音符が同じ漢字(形声文字)は、基本的に同音である(去声と入声、声母の清濁による細かい「音の違い」はある)。
「努」は努力の「ド」、憤怒は「フンド」、「呶」は「ド・ドウ」、「孥」は孥戮(ドリク)、「弩」は弩弓(ドキュウ)、「駑」は駑馬(ドバ) ・・・。
「奴」は呉音(上古音)では「ド・ト」と発音されていた。
(余談)
「憤怒」は西村寿行の小説に「君よ憤怒(フンヌ)の河を渉れ」とあることから「フンヌ」とも読まれる。小説の映画化に当たってはタイトルを「君よ憤怒(フンド)の河を渉れ」としている。
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