『隋書』に「無文字、唯刻木結繩。敬仏法、於百済求得仏経、始有文字。<文字はなく、ただ木を刻み縄を結ぶ。仏法を敬い、百済において仏経を求得し、始めて文字あり。>」とあることから、我が国には仏経が伝来する以前には文字がなかったとされる。
しかし、『隋書』の記事は記紀の文字伝来記事と対応しない。
〇仏教伝来
我が国への仏教伝来については、538年と552年の二説ある。
538年説は、『上宮聖德法王帝説』に「志癸嶋天皇(欽明天皇)御世戊午年十月十二日、百済国聖明王、始奉度仏像経教并僧等」とある、欽明天皇の御世の戊午(538)の年の十月十二日に百済国の聖明王が始めて仏像・経教並びに僧等を度(渡)し奉る、とするものである。
552年説は、『日本書紀』欽明十三年の「冬十月、百済聖明王、更名聖王、遣西部姫氏達率怒唎斯致契等、献釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻。」とある、欽明十三(552)年の十月、百済の聖明王が使者を使わし、釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献上した、とするものである。
『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に「大倭国仏法創、自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月、度来。百済国聖明王時、太子像并灌仏之器一具及説仏起書巻一筐度」とあり、百済の聖明王が仏教を伝えたのは欽明天皇の七年(546)とあるが、干支年は戊午(538年)とある。
平安時代後期の公卿大江匡房の『対馬貢銀記』に「欽明天皇之代、仏法始渡吾土、此島有一比丘尼、以呉音伝之。」とあり、欽明天皇の時代に倭が国に始めて仏法が渡ってきたときに対馬の比丘尼が仏法を「呉音」で伝えたとある。
仏法の経論・経教・説仏起書が「呉音」であるのは当然である。
隋の大業四(608)年に倭国に遣わされた裴世清は、この対馬の比丘尼が伝えた「呉音」を「文字」のことと早とちりをしたのではなかろうか。
平安末期成立の『日本紀略』延暦十一(792)年に、桓武天皇は「勅。明経之徒、不習正音、発声誦読、既致訛謬、(宜)熟習漢音。<勅す。明経(経書を学ぶこと)の徒は、正音を習わず、誦読を発声するに、既に訛謬に致す。宜しく漢音を熟習すべし。>」と勅命したとある。
朝廷は遣唐使の持ち帰った「漢音」を文字を読む「正音」としたが、桓武天皇の時代になっても中国の儒教の経典を学ぶ明経の徒は「正音」を習わず、今までどおり経典を誦読するのに「呉音」を使用していた。
ために、桓武天皇は明経の徒にも「漢音を熟習(習熟)すべし」と勅命した。
『日本後紀』延暦十二(793)年には、「制、自今以後、年分度者、非習漢音、勿令得度。<制す。今より以後は、年分度者(その年に出家を認められた人)は、漢音を習わずば、得度(悟りを求めて仏道の修行に入ること)せしむることなかれ。>」とある。
しかし、仏教の経典はリズムよく誦読するように呉音(上古音)で押韻されており、すでに普及した経の読み方はそう簡単には変わらず、仏教語の漢字音に呉音読みが残った。
日本語の漢字音に呉音読みと漢音読みがあるのはこのためである。
〇文字伝来
文字の伝来については、『日本書紀』応神十五(284)年に「阿直岐亦能読経典、即太子菟道稚郎子師焉」とあり、経典を能く読む百済の王子阿直岐が入朝し太子菟道稚郎子の師となったとある。
翌十六(285)年には「春二月、王仁来之、即太子菟道稚郎子師之、習諸典籍於王仁」とあり、太子菟道稚郎子の師の王仁が来たりて、太子は王仁に諸典籍を習ったとある。
王仁(和邇吉師)が持ち来たりた諸典籍について、『古事記』応神記に「亦百済国主照古王、以牡馬一疋、牝馬一疋、付阿知吉師以貢上。亦貢上横刀及大鏡。又科賜百済国若有賢人者貢上。故、受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十巻、千字文一巻、并十一巻付是人即貢進」とある。
ここにある『千字文』は魏の鍾繇(151-230)
になる漢字の習本として用いられた、1000の異なった文字からなる漢文の長詩である。
今に残る『千字文』は巻首に「魏大尉鍾繇千字文・右軍将軍王義之奉勅書」とある、魏の鍾繇の『千字文』を晋の王義之が勅を奉じて書いた「二儀日月」で始まる『二儀日月千字文』である。
一般に知られる『千字文』は梁の周興嗣(470-521)が武帝の勅を奉じて、魏の鍾繇の『千字文』を韻に従い順序を正したという「天地玄黄」という言葉で始まるもの。
日本の地名や人名の漢字音には呉音が伝わる以前に伝わった中国上古音に由来するといわれる「古音」と呼ばれるものがある。(『講談社漢和辞典』「日本漢字音の分類」:「奇(ケ)、宜(ガ)、居(ケ)、挙(ケ)、思(ソ)、移(ヤ)、己(ヨ)、里(ロ)、川(ツ)、止(ト)」)
『魏志』倭人伝に「伝送文書・賜遺之物、詣女王」とある魏から卑弥呼に伝送されてきた文書には、鍾繇の『千字文』が含まれていたのかもしれない。
それは兎も角、卑弥呼に「文字」が齎されているのは確実である。
『魏志』倭人伝には卑弥呼が魏の明帝から「親魏倭王」に制詔(天子の命令)された時(景初二年)の詔書の全文が収載されている。
其年十二月、詔書報倭女王曰;『制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使、送汝大夫難升米、次、使都市牛利、奉汝所獻、男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今、以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授。汝其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米牛利、渉遠道路勤勞。今、以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今、以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟[罒/剡] 十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、荅汝所獻貢直。又、特賜汝、紺地句文錦三匹、細班華[罒/剡]五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、皆裝封、付難升米・牛利。還到録受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故、鄭重賜汝好物也。』
<景初二年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く;『親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏が郡使を遣わし、汝の大夫難升米、次、使都市牛利を送り、汝が献ずるところの男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り、以って到る。汝が在るところ踰(はる)かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚(はなは)だ汝を哀れむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し仮に授ける。汝が其の綏撫する種人に、勉めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り道路勤労す。今、難升米を以って率善中郎將と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見(接見)し労を賜(ねぎら)い遣わし還す。今、絳地交龍錦五匹・絳地縐粟[罒/剡] 十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以って汝が献ずるところの貢直に答える。又、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華[罒/剡]五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠、鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して、難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以って汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝に好物を賜う也。』>
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