2019年9月4日水曜日

山島と洲島


1.倭地

魏志倭人伝は『前漢書』地理志燕地の条の「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。」を承けて、冒頭に「倭人在帯方東南大海之中為国。<倭人は帯方東南大海り、って国を為す。>と、倭人が国邑をなす地すなわち倭地について「山島」であると明記することに始まる。

「山島」とは朝鮮半島と九州島との間の対馬海峡に千里という距離で等間隔で浮かぶ、島土の89%を山地が占め対馬(対海国)や標高212.8mの岳の辻を擁する壱岐(一大国)のように高い山のある島のことである。

そして又、倭地については風俗記事の最後に「参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千。」ともある。

「洲島」とは川の中で土砂が堆積してできた中州状の島のことで、海島の場合、例えばサンゴ礁が海底隆起によったり山島が長年月の間に崩落して形成された平べったい島のことである。

「絶在海中とは絶海の孤島”という表現があるように、陸を遠く離れた海の彼方の中にあるということ

或絶或連とは、いくつもの島々があるものは遠く、あるものは近く連なっているいるということ。

中国から見て絶在海中陸を遠く離れた海の彼方)に洲島(中州状の島)が或絶或連(遠く或いは近く連なる)しているのは、東シナ海に連なる南西諸島以外にみられない。

「周旋」とは遠く或いは近く連なっている島々の上を“隅々まで行き渡る”ということ。

魏志倭人伝の里単位は1里=75mであり、「五千」は約375kmとなる。

ちなみに南西諸島のうち奄美群島の端から沖縄諸島の端までは約350kmであり、それはほぼ浙江省の東に位置する。

2.会稽海外

古来、浙江省の東の海は「会稽海外」と称された。

前漢書地理志呉地の条に「會稽海外有東人、分爲二十餘國、以歳時來獻見云。」とある。

魏志倭人伝には「鯷人」に関する記述がないが、魏志倭人伝を参考にしている『後漢書』は倭伝の最後を「會稽海外有東人、分爲二十餘國。又有夷洲及亶洲。傳言、秦始皇帝遣方士徐福、將童男女數千人、入海求蓬莱、神仙不得。徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市、會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至。亶洲者所在絶遠、不可往來。<会稽海外に東人あり、分かれて二十余国を為す。また、夷洲および亶洲あり。伝えて言う、始皇帝は方士徐福を遣わし、童男女数千人を将いて、海に入り蓬莱を求めしも、神仙を得ず。徐福は誅されるのを畏れて敢えて還らず、遂にこの洲に止まり、世世相承し、数万家あり。人民、時に会稽に至り市す、会稽東冶県人、海に入り、風に遭いて行きて、流い移りて至る有り』と。亶洲は在るところ絶遠にして、往すべからず>」としている。

後漢書の「會稽海外有東人、分爲二十餘國」は、勿論、『前漢書地理志呉地の条からの引用であるが、「又有夷洲及亶洲…」以下は『呉志呉主権伝の「黄龍二(230)…、遣將軍衛温諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中長老傳言、秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、求蓬神山及仙藥、止此不還。世相承有數萬家、其上人民、時有至會稽貨布、會稽東縣人海行、亦有遭風流移至亶洲者。所在遠、卒不可得至、但得夷洲數千人還。<(孫権は)将軍衛、諸葛直を遣し甲士一万人をいて海に浮かび夷洲及び亶洲を求めしむ。亶洲は海中に在り。長老、伝えて言う、『秦の始皇帝方士徐福を遣し童男童女千人をいて海に入り、蓬莱・神山及び仙を求めしむるも、此の洲に止まりて還らず。世(代々)、(あ)い承(う)け数万家有り。其の上の人民、時に有りて会稽に至り貨布す。会稽の人、海に行き、また風に遭い流移して亶洲に至る者有りと。在遠にして卒を得る至るべからずただ夷洲の千人を得て還る。>」からの引用である。

『後漢書』は陳寿の言う会稽県」を「会稽東冶県」としているが、会稽海外には倭のの二十余国と夷洲亶洲が存在するとしている。

三国時代は戦乱、飢饉、疫病の流行などで人口が激減し、どの陣営も兵士不足に悩まされた。

卑弥呼が魏に使節をおくる8年前の黄龍二(230)、呉の孫権は兵力の不足を現地民の「人狩り」で補うため、将軍の温と諸葛直に兵士1万人の船団を率いさせ、会稽から夷洲および亶洲に派遣した。

このうち、「亶洲在海中」「所在絶遠」とある“絶在海中”の亶洲は沖縄ではなかろうか。(卒数千人を得て還るとある夷洲は台湾か?)

陳寿が『前漢書地理志呉地の条の「会稽海外」を認識しているのは明らかである。

『魏志』に鯷人の記述がないのは、「問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千」が、鯷人ついてのことだからではなかろうか。

3.参問

「問う」は、知りたいことををたずねる。聞く。質問する。(大辞林)

「参る」は、行く、来るの謙譲語目上の人や、身分の高い人に対して用いる。(角川古語辞典)

しからば倭地を参問問い参る)したのは誰か?

『後漢書』に「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」とある。

後漢の中元二(57)、光武帝は倭奴国の使者の情報により、倭国の南界を極めることができた功績により倭奴国に印綬を下賜した。

倭地を参問問い参る)するとは、光武帝が倭奴国の使者に“倭国の領域を質問なさるに” いった意味合いではなかろうか。

倭奴国の使者の情報により倭国の南界を極めたとは、九州のさらに南の南西諸島のの二十余国も倭国、すなわち倭地(亶洲)だと判明したということではなかろうか。

『倭地を参するに、絶在海中陸を遠く離れた海の彼方)の洲島(中州状の島)の上を、或絶或連(遠く或いは近く連なる)、周旋(隅々まで行き渡る)すること五千余里可(ばか)り』

清の胡渭になる『禹貢錐指』に「、後漢謂之大倭國、即今日本。」とある。