陳舜臣・陳謙臣著の「日本語と中国語」に、
『中国語は活用しませんし、“てにをは”も時相(テンス)もほとんどありません。
―我念書。
右の中国文は<私は本を読む>と日本語に訳せます。念は読むことです。
しかし、これを、<私は本を読んだ>と、過去に訳してもまちがいとはいえません。
<私は(これから)本を読もう>と、未来に解してもかまわないのです。
現在であるか過去であるか、それとも未来であるかは、前後の関係できめるほかありません。』
と、ある。
翻って、伊都国の「世有王」は<代々、王がいる>と現在形で読まれている。
しかし、「世」とは“代々、父子相つぐこと”という意味であるから、どちらかというと現在より過去に重きをおいた用語である。
「世有王」は<代々、王がいた>と過去形にも読めるのではなかろうか。
伊都国には女王・卑弥呼以前の男王がいた。
卑弥呼が倭国の王になった経緯について「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼。<その国はもとまた男子をもって王となす、住七八十年、倭国乱れ、相い攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立し王となす、名を卑弥呼という>」とある。
卑弥呼は倭国の乱(おそらくこの「男王」の跡目争い)を収めるべく、諸国に共立されて新たな倭王となり都を邪馬壹国とした。
卑弥呼以前の男王について、魏志倭人伝を参考にしている『後漢書』に「建武中元二(57)年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬。」とある。
建武中元二(57)年に倭奴国が光武帝から賜った印綬が、志賀島から発見された「漢の委奴(イト)の国王」の金印である。
「伊都」の「伊」は字の前後について熟語を作る動作状態を形容する助辞。
「伊都」という表記には、伊都国が卑弥呼以前の男王、代々の倭奴(イト)国王が都とした国であったことを示している。
●「皆統属女王国」
「統属」とは、「所属の官司を統べ治める」という意味であり(諸橋大漢和辞典)、統べる主体(統主)はあくまでも人格である。
伊都国王(人格)と女王国(非人格)との統属関係においては、その統べる主体(統主)はあくまでも人格たる代々の伊都国王である。
「(人格)統属(人格)」の場合は、その主体(支配者)・客体(被支配者)の関係はその文脈から判断するしかない。
統属の統(すべる)は“たばねる。あわせる。一つにまとめる”という意味であり、統べられる客体が単数ということはない。
代々の伊都国王を言う「皆」は、その意味では複数であるが、女王国との統属関係の時点では一人の王である。
女王国が一人の伊都国王を統属することはできない。
従って、この「女王国」が女王・卑弥呼の都する邪馬壹国を意味するものではない。
この「女王国」は女王・卑弥呼を倭王とする倭国のことである。
「皆統属女王国」とは、卑弥呼以前の代々の伊都国王(倭奴国王)は皆、今は卑弥呼が統治する「女王国」を統属していた、ということである。
●伊都国は糸島?
「東南陸行五百里、到伊都国。」<東南(の方)、陸行すること五百里にして伊都国に到る。>
伊都国を糸島市付近に比定するのが定説である。
糸島が伊都国に比定されるのは、古くは糸島が「怡土」と呼ばれたことによる。(明治23年、怡土郡と志摩郡が合併し「糸島」となる。)
そして定説は九州の上陸地である末盧国を唐津市付近に比定したうえで、「東南陸行」の方位は狂っているとする。
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橋本増吉:「総体的な方位が東北にあるものが、魏志の記載では東南となっている」
奥野正夫:「九州に上陸してからの方位は反時計回りに45度ずれている」
原田大六:「53度から65度南にずれている」
しかし、伊都国は「郡使往来、常所駐<郡使の往来するに常に駐まる所>」とあり、伊都国が唐津湾の中にあれば郡使は一大国から直航で伊都国に行く。
伊都国を地名が似ているからと言って唐津湾の糸島に比定するから、唐津湾上を直線で約20㎞の唐津から糸島を、(船があるのに)唐津湾岸線に沿って「陸行」することになる。
魏志倭人伝の位置比定は本来的には文献史学の問題であり、考古学(地名学)がこの問題の判断能力をもっているわけではない。
要は、考古学の結論が倭人伝と整合性がとれているかということである。
帯方郡との通交の証である楽浪土器は対馬・壱岐・北部九州に集中して出土するが、糸島の三雲遺跡からは北部九州において最も大量の楽浪土器が出土している。
末盧国に比定される唐津の桜馬場遺跡では調査は結構多いにも関わらず、不明。
楽浪土器は壱岐から直接糸島に搬入されているとみえ、唐津より糸島が九州の上陸地たる末盧国にふさわしい。
倭人伝は伊都国は海岸線の末盧国から「東南」に「陸行」した「五百里」の内陸にあるとしている。
唐津や糸島の東南は脊振山地である。丘や山がうねうねとひっきりなしに続いている様を「陸続」という。
末盧国から伊都国への「陸行」とは、背振山地の“陸続とした山並みを行くこと”ではなかろうか。
陳寿は倭人伝の里程を1里=75mとしている。
75m×500里=37.5㎞
唐津の東南、直線距離で約37㎞の脊振山地南麓の丘陵に吉野ケ里がある。
吉野ケ里遺跡の建物跡の一部は、郡使の常に駐まる所(常処)かもしれない。
●「国皆称王、世世伝統」
『後漢書』の「国皆称王、世世伝統」は、魏志倭人伝には見えない記事である。
「国皆称王、世世伝統」は、伊都国王についていう「世有王皆統属女王国」の“世”“王” “皆”“統”からの造文ではなかろうか。
つまり、後漢書の范曄は「世有王、皆統属女王国」を、「世有王皆統、属女王国」と読んだのではなかろうか。
「統属」を切り離して「世有王皆統、属女王国」とすると、代々の伊都国王を指していう「皆」は、卑弥呼の女王国に属する倭の諸国の王をいう「皆」となった(「国皆称王」)。
そして、統属の「統」は、諸国王が代々伝える伝統の「統」になったのだろう(「世世伝統」)。
その結果、范曄の観念の中で、倭(イ)の女王卑弥呼は諸国の王を統属する“king of kings”の「大倭(ダイ・イ)王」になり、邪馬壹(ヤマ・イ)国から邪馬臺(ヤマ・ダイ)国に居を移すことになった。(『後漢書』:「其大倭王居邪馬臺国」)