2018年8月30日木曜日

伊都国王と倭奴国王


世有王、皆統女王国。<代々、王あり、皆、女王国を属す>

「世有王」

陳舜臣・陳謙臣著の「日本語と中国語」に、

『中国語は活用しませんし、てにをはも時相(テンス)もほとんどありません。

我念書。

右の中国文は<私は本を読む>と日本語に訳せます。念は読むことです。

しかし、これを、<私は本を読んだ>と、過去に訳してもまちがいとはいえません。

<私は(これから)本を読もう>と、未来に解してもかまわないのです。

現在であるか過去であるか、それとも未来であるかは、前後の関係できめるほかありません。』

と、あ

翻って、伊都国の「世有王」は<代々、王がいる>と現在形で読まれてい

しかし、「世」とは代々、父子相つぐことという意味であるから、どちらかというと現在より過去に重きをおいた用語である

「世有王」は<代々、王がいた>と過去形にも読めるのではなかろうか。

伊都国には女王・卑弥呼以前の男王がいた。

卑弥呼が倭国の王になった経緯について「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼。<そのはもとまた男子をもってとなす、住七八十年、倭国乱、相攻伐すること歴年、乃一女子共立となす、名卑弥呼という>」とある。

卑弥呼は倭国の乱(おそらくこの「男王」の跡目争い)を収めるべく、諸国に共立されて新たな倭王となり都を邪馬壹国とした。

卑弥呼以前の男王について、魏志倭人伝を参考にしている『後漢書』に「建武中元二(57)年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」とあ

建武中元二(57)年に倭奴国が光武帝から賜った印綬が、志賀島から発見された「漢の委奴(イト)の国王」の金印である。

「伊都」の「伊」は字の前後について熟語を作る動作状態を形容する助辞。

「伊都」という表記には、伊都国が卑弥呼以前の男王、代々の倭奴(イト)国王とした国であったことを示してい

「皆統属女王国」

統属」とは、「所属の官司を統べ治める」という意味であり諸橋大漢和辞典)、統べる主体(統主)はあくまでも人格である。

伊都国王(人格)と女王国(非人格)との統属関係においては、その統べる主体(統主)はあくまでも人格たる代々の伊都国王である

「(人格)統属(人格)」の場合は、その主体(支配者)・客体(被支配者)の関係はその文脈から判断るしかない

属の統(すべる)たばねるあわせる。一つにまとめるという意味であり、統べられる客体が単数ということはない。

代々の伊都国王を言う「皆」は、その意味では複数であるが、女王国との統属関係の時点では一人の王である。

女王国が一人の伊都国王を統属することはできない。

従って、この「女王国」が女王・卑弥呼の都する邪馬壹国を意味するものではない。

この「女王国」は女王・卑弥呼を倭王とする倭国のことである。

「皆統属女王国」とは、卑弥呼以前の代々の伊都国王(倭奴国王)は、今は卑弥呼が統治する女王国を統属していた、ということである。

●伊都国は糸島?

東南陸行五百里、到伊都国。」東南(の方)、陸行すること五百里にして伊都に到る。

伊都国を糸島市付近に比定するのが定説である。

糸島が伊都国に比定されるのは、古くは糸島が「怡土」と呼ばれたことによる。(明治23年、怡土郡と志摩郡が合併し「糸島とな

そして定説は九州の上陸地である末盧国を唐津市付近に比定したうえで、「東南陸行の方位は狂っているとする。

***

橋本増吉「総体的な方位が東北にあるものが、魏志の記載では東南となっている」

奥野正夫「九州に上陸してからの方位は反時計回りに45度ずれている」

原田大六「53度から65度南にずれている」

 

しかし、伊都国は「郡使往、常所駐郡使の往来するにまる>」とあり伊都国が唐津湾の中にあれば郡使は一大国から直航で伊都国に行く。

伊都国を地名が似ているからと言って唐津湾の糸島に比定するから、唐津湾上を直線で約20㎞の唐津から糸島を、(船があるのに)唐津湾岸線に沿って「陸行」することになる。

魏志倭人伝の位置比定は本来的には文献史学の問題であり、考古学(地名学)がこの問題の判断能力をもっているわけではない。

要は、考古学の結論が倭人伝と整合性がとれているかということである。

帯方郡との通交の証である楽浪土器は対馬・壱岐・北部九州に集中して出土するが、糸島の三雲遺跡からは北部九州において最も大量の楽浪土器が出土している。

末盧国に比定される唐津桜馬場遺跡では調査は結構多いにも関わらず、不明

楽浪土器は壱岐から直接糸島に搬入されているとみえ、唐津より糸島が九州の上陸地たる末盧国にふさわしい。

倭人伝は伊都国は海岸線の末盧国から「東南」に「陸行」した「五百里」の内陸にあるとしている。

唐津や糸島の東南は脊振山地である。丘や山がうねうねとひっきりなしに続いている様を「陸続」とい

末盧国から伊都国への「陸行」とは、背振山地の陸続とした山並みを行くことはなかろうか。

陳寿は倭人伝の里程を1里=75mとしている。

75m×500里=37.5

唐津の東南、直線距離で約37脊振山地南麓の丘陵に吉野ケ里がある。

吉野ケ里遺跡の建物跡の一部は、郡使の常に駐まる所(常処)かもしれない。

「国皆称王、世世伝統」

後漢書』の「国皆称王、世世伝統」は、魏志倭人伝には見えない記事である。

「国皆称王、世世伝統」は、伊都国王についていう「世有王皆統属女王国」”“” “”“からの造文ではなかろうか

つまり、後漢書の范曄は「世有王、皆統属女王国」を、「世有王皆統、属女王国」と読んだのではなかろうか

「統属」を切り離して「世有王皆統、属女王国」とすると、代々の伊都国王を指していう「皆」は卑弥呼の女王国に属する倭の諸国の王をいう「皆」となった(「国皆称王」

そして、統属「統」は、諸国王が代々伝える伝統の「統」になったのだろう(「世世伝統」)。

その結果、范曄の観念の中で、倭(イ)の女王卑弥呼は諸国の王を統属する“king of kings”の「大倭(ダイ・イ)王」になり、邪馬壹(ヤマ・イ)から邪馬臺(ヤマ・ダイ)に居を移すことになった。(『後漢書』:「其大倭王居邪馬臺国」)

2018年8月26日日曜日

一大率と刺史


自女王以北、特置一大率検察、諸畏憚之、常治伊都國中有如刺史王遣使詣京都・方郡・諸韓国、及郡使倭、皆臨津。捜送文書賜遺之物、詣女王不得差錯。」

女王国より以北に、特に一大率を置き、検察せしむ。諸国は之を畏れ憚る。常は伊都国に治す。国中に於ける刺史の如くあり王の遣使の京都・帯方郡・諸韓国に詣り、郡使の倭国へ及ぶに、皆、臨津す。伝送の文書と賜遺の物を搜露し、女王に詣るに差錯するを得ず。


1.「自女王以北、特置一大率検察、諸畏憚之、常治伊都国。

「特置」と「常治」は対句である。

 

「常」は“常時。特別ではない。普通の。”という意である。

」は“地方官の駐在する役所”という意である。

常治とは、常(常時)は治所にいるということ。

 

「特置」女王国(邪馬壹国より以北の諸国(対海、一大、末盧、伊都、奴、不彌、投馬)に一大率が“特別に設置されたと解すると、諸国に置かれた一大率が常(常時)は伊都国の治所いるというのも妙な話である。

そこで、「特」は「常(常時)して“臨時”ということで、「特置」とは“臨時の措置”といった意味合いに解した。

“臨時”とは、王遣使詣京都・方郡・諸韓及郡使倭国、皆臨津。<(卑弥呼)の遣使の京都(洛陽)・帯方郡・諸韓国(馬韓・辰韓・弁韓)に詣り、郡使の倭国へ及ぶに皆、臨津>」る時である。

諸橋大漢和辞典に【臨津(リンシン)】とは、“わたし場に至る”の意とある。

水陸の交通に重要な地点を「津要」といい、要衝に設けて旅人を検査する関を「津関」という。

は、必ずしも“船着き場”を意味するとは限らない。

京都(洛陽)や帯方郡や三韓に遣わされた卑弥呼の使者が帰国した時や、魏朝から遣わされた帯方郡使が来倭する時は皇帝から卑弥呼への下品を携えていた。

使者が携行した下賜品は諸国(対海、一大、末盧、伊都、奴、不彌、投馬)の「津」で引き継がれ、国から国へと次々に送られて卑弥呼まで届けられた。

卑弥呼の遣使や帯方郡使が倭国に至った時は、いつもは伊都国に治す一大率は臨時の措置として下賜品とともに諸国を巡回し、下賜品が引き継がれる諸国の「津」でこれを検察(閲する。吟味するした。

「捜送文書賜遺之物、詣女王不得差錯。<伝送文書と賜遺の物を露し、女王に詣るに差錯するを得ず>」は、臨時に措置された一大率の検察(閲する。吟味する)の具体的な中身である

「伝送」は、“次々に送る”の意。

捜露」の「搜」はしらべる。かぞえる”という意、「露」はあらわす。あらは。むきだし。”という意。

「捜露」とは、諸国を伝送されてきた下品の荷を露わにし、その中を調べ数えるということ。

「差錯」とは、交わる。入り乱れる。互い違いになるという意。

諸国の津で行われた一大率の検察(閲する。吟味する)とは、諸国を伝されてきた文書(下品の目録)と賜遺(下品)が女王卑弥呼にいたった時に差錯交わる。入り乱れる。互い違いになる)がないように、文書(下品の目録)に書かれた品目どおりにの品数があるかを照合点検することである。

諸国一大率の検察を畏れ憚った

諸国が畏れ憚ったのは、一大率の検察による「抜け荷」の発覚であろう。

 

2.「於国中有如刺史」

刺史は郡県制のしかれた秦代に郡の監察を職務とする監御史に由来し、前漢の武帝が全国(九十八郡)を十三州に分けた時に新設された郡太守の上級官で中央から派遣された地方行政官(使君と呼ばれた)。

その州に属する各郡を巡回し郡太守の職務の監察を主務とした。その官秩(かんちつ)は六百石であり、郡太守(秩二千石)よりも低かった。(『漢書百官公卿表:「武帝元封五(BC106)年、初置部刺史、掌奉詔條察州、秩六百石、員十三人。」)

しかし、郡太守の職務を監察するという任務の性格上しだいに権力を持ち、漢霊帝のときの混乱時に際し、牧(刺史の別名)の劉虞らが幽・益・予などの各州の反乱を鎮めた。

この時以来、軍官も兼帯するようになって一州の全権を掌握するに至り、後漢末には郡太守よりも上位になった。

魏晋の時代も州内の郡太守を統括する上級行政官として権力がさらに大きくなり、なかには都督諸軍事の資格も兼ねて、軍事、行政、司法を握る強力なものになった。

西晋の太康元(280)年、武帝は呉を平定し統一を果たしたのを期に、地方官の帝権に対する反乱を未然に防ぐことを意図して、刺史と軍官の兼帯は禁じ詔勅を出した。

しかし、太康282)年7月に平州刺史の鮮于嬰が鮮卑の侵入を撃退したり、その9月に呉降将の反乱で揚州が包囲されたので徐州刺史が出動し鎮圧したりと、まだ刺史が将軍として機能していた。

ために、刺史の職掌を漢制に戻そうとする詔勅は何度か出た。

陳寿の三国志執筆時の晋の太康年間後葉には完全に軍官の兼帯は禁じられ、漢の時代のように非軍政官の郡太守の職務を監察してまわる単なる「郡見回り役」となった

陳寿は倭国の官職である「一大率」について、「於国中有如刺史」としている。

これを国中(倭国中)には一大率とは別官の「刺史のような者」がいると解する向きもあるが、そうであれば「有如刺史」は「有如刺史」となっている筈。後漢書皇后紀:「斉桓有如夫人者六人。<斉の桓公は夫人の如き者六人有り>

「有如」前出する対象を指して「まるで~ようである」というに用いる。

「於国中有如刺史」は前出の一大率が<国中(中国中)における、まるで刺史のようである>ということである。

陳寿は魏志巻十五巻全体が刺史として名を顕した者の伝)の巻末評語で魏代の刺史について高く評価している。

評曰、自漢季以來、刺史統諸郡、賦政干外非若曩時司察之而巳太祖創基迄終魏業績、此皆其流稱譽有名實者也、咸精達事機、威恩兼著、故能粛齊萬里、見述干後也。」

評に曰く。漢の季(すえ)自り以来、刺史は諸郡を統べ、政を外に賦(し)く。嚢時(先の時代)の若く之を司察する而巳(のみ)に非ず。太祖が国家の基礎を創ってから魏の帝業が終わるまでの期間において、上の人々の評判はたてられ、名実ともに備わっていた。みな仕事の機微に精達し、威厳と恩恵がともに著われた。だからよく万里四方の地をひきしめととのえ、後世に語られたのである。

陳寿の「於中有如刺史」の一文は、「特置」されたときの一大率陳寿の三国志執筆時(晋の太康年間)の刺史に比喩しての晋代の読者を意識した「今の刺史は郡見回り役のようで何もしていない名誉職」と揶揄しているのである

 

2018年8月24日金曜日

一大国と瀚海

又、南渡一海千里、名曰瀚海、至一大国。」
<また、南に一海を渡ること千余里にして、名を瀚海という、一大国に至る。>

陳寿は、対海国(対馬)と一大国(壱岐)との間の海峡(対馬海峡東水道)を「瀚海」と名付けている。

諸橋大漢和辞典に「瀚海とは、砂漠の名で戈壁(ゴビ砂漠)のこととある。(【瀚海】:「砂漠の名。浩瀚(広大なこと。また、その様。)なことが海のようであるから名づける。又、翰海に作る。又、戈壁という。唐代、瀚海都護府を置く。今、外蒙古の地。瀚海に就いては古来、史家の間に定説がない。或いは古、此の地に広大な湖沼が有ったが、現在は広漠たる砂漠となったといい、或いは、バイカル湖であるという説もある。」)

史記匈奴漢驃騎軍之出代二千里、左賢王接、漢兵得胡首虜凡七万余級、左賢王皆遁走。驃騎封於狼居胥山、姑衍、臨翰海而還」の「翰海」に注をした、張守節になる史記正義に「按、翰海自一大海翰海一大海より名づく、羣鳥解羽、伏乳於此、因名也」とある。

陳寿は「一大」の表記が間違いではないことを示すために、一大国へ渡る海峡を「瀚海」と名付けておいたのではなかろうか

後漢の許慎になる中国最古の字書『説文解字』に「翰、天雞也、赤羽、从羽倝聲」とあり、「翰」は天雞(中国神話中の天の鶏)とある。

その『説文』に「天、顛也、至高無上、从一大」とあり、『諸橋大漢和辞典』に「一大」は「天の異称。一・大の二字を合すると天の字になるからいう。」とある。

『前漢書王莽伝に「尋手理有天子字、莽解其臂入視之、曰一大子也」とあり、「天子」は「一大子」とも書かれる。

「一大国」「天国」でもある。

記紀神話の「天降る」とは、天国から天国以外の土地へ赴くことをいう。
天降る先は、筑紫出雲新羅(曽尸茂梨)の三所である。

これら三所の中心に壱岐対馬が位置する。「天」である。
対馬には「阿麻留神社」がある。阿麻は「天照」である。
壱岐には「天原」という地名がある。高天原である。

天孫降臨は「高天原から筑紫への天降り」であり、壱岐の海士勢力の筑紫へ侵入である。

末盧国には「魚鰒(アワビ)をるのを、水浅と、皆沈没してる」という「水人」と呼ばれる人がいる。(「今倭水人好沈沒捕魚蛤」

今、潜水漁をする水人(海人・海士・海女)を「あま」と読むのは、筑紫へ侵入した壱岐の水人が天(あま)と呼ばれていたからはなかろうか。

壱岐をいう「一大」は、倭国で「天国」と漢字表記していたのを、陳寿はそのまま「天」とするに憚ることでもあったのか、分解して「一・大」としたのではなかろうか。

(余談)

『神皇正統記』北畠親房は、古事記に見られる「伊邪那岐」の名仏教用語の伊舎那天」の「天」「岐」に転じたものだという。



2018年8月23日木曜日

「大海」と「其北岸」


倭人在方東南大海之中依山島為国・・・、従郡至倭・・・、到其北岸狗邪韓国。」

<倭人は帯()東南(の方)大海にあり、や島にって国をなす・・・、より至倭に至る・・・、其北岸狗邪韓国にる。>

朝鮮半島の南岸に位置する狗邪韓国をいう「其北岸」の「其」は、直前の郡至倭」の「倭」を指示するとし、「其の北岸」「倭の北岸」と読むのが説である。

そして通説は「倭の北岸」とは、朝鮮半島南岸が倭国(九州北岸)から見て北に位置する対岸という意味だとする。

しかし、下北半島から見た北海道南岸をさして「青森の北岸」というような言い方はしない。

「倭の北岸」の解釈を迫られた内藤湖南は、「倭国は半島南岸から九州北岸を領域とする海峡国家であるとする。

これなら何とか半島南岸をして「倭の北岸」といえるということだろうが、狗邪韓国・対海国・一大国以外の倭国27国が「倭の南岸」に密集していなければならない。

そもそも「岸」とは海や河川の水涯(みずべり)のことであって、「○○の北岸」とあれば○○が河川であればその北側の岸辺を指し、○○が島や中州であればその北部の岸辺を指す。三国志の全用例も、この用法である。

ここまでのセンテンスで半島南岸をして「その北岸」と指示しえる名詞は、倭人伝冒頭の「倭人在方東南大海之中」の「大海」でしかあり得ない。

白鳥庫吉「北岸の文字は穏やかではないけれど、これを倭韓両国に横たわる海洋の北岸とみれば文意は通ずる」と述べている。

陳寿は狗邪韓国からの渡海の渡の字を「度」と省画している。(「始度一海千餘里、至對海國」

「始度」は大海の北岸に位置する狗邪韓国が、始めて船で倭国へ漕ぎ出す始度(第一歩)の地であることを示唆しているのである。


【補記】

『魏志』韓伝に「韓在方之南、東西以海限、南。<は帯にあり、東西をもってりとなす。とあることから、韓と倭は半島南岸で国境を接しているとする説がある。

しかし、「接」が地続きでなければならないことはない。

北宋王溥(922-982)の『』に「倭東海嶼中野人、有耶古・波耶・多尼三、皆附庸於倭。北限大海、西北百済、正北抵新羅、南越州相とある「接」は、島国倭国の西北は大海を挟んで百済と接しており、南は東海を挟んで中国の越州と接している。

西北百済」や「越州相の「接」が、陸地で国境接していることを意味しないことは明白である

唐書南蛮伝に「訶陵國(ジャワ)在南方海中洲上居、東婆利(バリ)、西墮婆登(スマトラ)、北与真臘(カンボジア)、南臨大海(インド洋)」とあり、この「接」はジャワとバリ、スマトラ、カンボジアが海を隔てて航路で結ばれているということである。

対馬からは晴れた日には互いが見渡せるほどに、倭韓は一衣帯水に近接している。

大海を挟んで近接する韓と倭の位置関係を表すには「南倭接」とするしかない