朝鮮半島の南岸に位置する狗邪韓国をいう「其北岸」の「其」は、直前の「従郡至倭」の「倭」を指示するとし、「其の北岸」は「倭の北岸」と読むのが通説である。
そして通説は「倭の北岸」とは、朝鮮半島南岸が倭国(九州北岸)から見て北に位置する対岸という意味だとする。
しかし、下北半島から見た北海道南岸をさして「青森の北岸」というような言い方はしない。
「倭の北岸」の解釈を迫られた内藤湖南は、「倭国は半島南岸から九州北岸を領域とする海峡国家である」とする。
これなら何とか半島南岸をして「倭の北岸」といえるということだろうが、狗邪韓国・対海国・一大国以外の倭国27国が「倭の南岸」に密集していなければならない。
そもそも「岸」とは海や河川の水涯(みずべり)のことであって、「○○の北岸」とあれば○○が河川であればその北側の岸辺を指し、○○が島や中州であればその北部の岸辺を指す。三国志の全用例も、この用法である。
ここまでのセンテンスで半島南岸をして「その北岸」と指示しえる名詞は、倭人伝冒頭の「倭人在帯方東南大海之中」の「大海」でしかあり得ない。
白鳥庫吉は「北岸の文字は穏やかではないけれど、これを倭韓両国に横たわる海洋の北岸とみれば文意は通ずる」と述べている。
陳寿は狗邪韓国からの渡海の渡の字を「度」と省画している。(「始度一海千餘里、至對海國」)
「始度」は大海の北岸に位置する狗邪韓国が、始めて船で倭国へ漕ぎ出す始度(第一歩)の地であることを示唆しているのである。
【補記】
『魏志』韓伝に「韓在帯方之南、東西以海為限、南与倭接。<韓は帯方の南にあり、東西を海をもって限りとなす。南、倭と接す」とあることから、韓と倭は半島南岸で国境を接しているとする説がある。
しかし、「接」が地続きでなければならないことはない。
北宋王溥(922-982)の『唐会要』に「倭国東海嶼中野人、有耶古・波耶・多尼三国、皆附庸於倭。北限大海、西北接百済、正北抵新羅、南与越州相接」とある「接」は、島国倭国の西北は大海を挟んで百済と接しており、南は東海を挟んで中国の越州と接している。
「西北接百済」や「南与越州相接」の「接」が、陸地で国境を接していることを意味しないことは明白である。
旧唐書南蛮伝に「訶陵國(ジャワ)在南方海中洲上居、東与婆利(バリ)、西与墮婆登(スマトラ)、北与真臘(カンボジア)接、南臨大海(インド洋)」とあり、この「接」はジャワとバリ、スマトラ、カンボジアが海を隔てて航路で結ばれているということである。
対馬からは晴れた日には互いが見渡せるほどに、倭韓は一衣帯水に近接している。
大海を挟んで近接する韓と倭の位置関係を表すには「南与倭接」とするしかない。
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