2018年8月23日木曜日

8.陳寿の里単位:「計其道里、当在会稽『東治』之東」

○「自郡至女王二千

 

帯方郡から女王国(邪馬壹国)までの「一万二千里」とは、

①帯方郡から東南の大海の北岸の狗邪韓国まで7000里。

②狗邪韓国から南に渡海し国まで1000里、対国から一大国まで1000里、一大国から末盧国まで1000渡海3000里』。

九州に上陸し末盧国から東南に陸行して伊都国まで500里。

④伊都国から東南して奴国まで100里。

⑤奴国から東行して不弥国まで100里。ここまで10700里。

⑥不弥国から南へ「水行20日」して投馬国、投馬国から南へ「水行10日陸行1月」して目的地の邪馬壹国至るまでの『水行陸行1300里』の南へ東へとジグザグと曲折した道程の総距離である

***

白鳥庫吉『倭女王卑弥呼考』1910「一体倭人伝に見える魏使経行の里程や、不弥国から邪馬臺国までの日程に非常な誇張があることは何に依るのであらうか。魏代の一里は漢代の一里と大差なく、漢の一里は略々我が三町四十八間に当たると見て大過ないと思われるが・・・斯かる短い単位を以てしても実際の距離を換算して見るにやはり著しい誇張がある。玆に一々数字を挙げて見るまでもなく、現行の正確なる地図・海図等に拠り、最も普通なる航路を測って之を魏里に引き直してみると約五倍の誇張がある。」

*** 

白鳥庫吉は魏志倭人伝の「里単位」は約5倍の誇張があるという。

確かめてみよう。

部分里程のうち当時と今でも2地点間の距離が変わらないのは②の朝鮮半島(狗邪韓国)と九州(末盧国)の間の対馬海峡の渡海3000里』である。

狗邪韓国は釜山に末盧国を唐津に比定するのが定説であるから、釜山から唐津を直線的に結ぶ海峡幅225である(グーグルマップ)。

海峡幅225km÷渡海3000里=75m/1

講談社漢和辞典の度量衡換算表に魏の124.12㎝とあるので、6尺=1歩、300歩=1里から魏の1里は魏尺24.12××300434.16mである。

434.16÷75m5.78

確かに白鳥が指摘するように、倭人伝の里単位は約5倍の誇張がある。

 

〇「計其道里、稽『東治』之東」

陳寿は帯方郡から邪馬壹国までの「一万二千里」について、「計其道里、稽『東治』之東<その道里るに当(まさ)に会稽東治る>。」と注釈している。

『魏志』倭人伝を参考にしている『後漢書』に「其地大較在東冶之東<其(倭)の地は大較(おおむね)稽郡東冶県の東にある>。」とあことから、『魏志』の東治」は「東冶」の誤りとするのが定説である。(盧弼『三国志集解』:「治當作冶范書云。<范書(後漢書)の記事から見て「東治」とあるのは「東冶」に作るべきである。>」

北京中華書局発行の『新校本三国志『校点本三国志』、清の梁章鋸撰・楊耀坤校訂『三国志旁証』も校勘記なしに「東冶」に改訂しており、張元済(1867-1959)の百衲本三国志』にいたっては宮内庁書陵部所蔵の紹煕本を撮影印刷した影印本とされるのに、紹煕本に見られる「東治」が「東冶」に改訂されている。

通説が何の考証もなしで“「東治」とするものあるは「東冶」の誤りとするのは、歴史上、「稽郡東治県」なるものは存在しなかったからである。

〇会稽郡東冶県

会稽郡は秦の始皇帝が天下を統一し郡県制を敷いた時の13郡の一つ。今の江蘇省から福建省を管轄とした。郡治は呉県(今の江蘇省蘇州(『前漢書』地理志:「会稽郡、秦置。高帝六年為荊國、十二年更名景帝四年屬江都。屬揚州二十二萬三千三十八、口百三萬二千六百四。縣二十六:故國、周太伯所邑。

郡治の呉県は【故国(古くからある国)、周の太伯、邑する所】であり、現在の蘇州市呉中区及び相城区に相当する。

ちなみに『魏略』の「聞其語、自謂太伯之後」の記事は、『魏志』倭人伝にはない。

東冶県は会稽郡26県の一つ。今の福建省閩侯県の東北、冶山の北麓福州市附近。

東冶県は元は「冶県」という前漢代の名称で、後漢代になると侯官が置かれたので、正式名称も「侯官都尉」もしくは「東侯官」になり東冶県」というのはなくなる。(『旧唐書』地理志福州:「武帝誅東越、徒其人於江淮空其地其逃亡者自立為冶県、後更名東冶県。後漢改為侯官都尉、属会稽郡。」、『中国歴史地名大辞典』:「漢置冶県、後漢曰東侯官、故城在今福建閩侯県東北冶山之麓。」)

後漢の順帝永建四(129)年、稽郡を今の上海あたりで南北に二分し、今の江蘇省にあたる北部を呉郡とした。以降、呉県は呉郡の治になる。(『後漢書』郡国志:「呉郡、順帝、分会稽置。)

稽・呉分離以降、稽郡は今の浙江省以南となり、郡治は山陰県(今の浙江省紹興県)に移る。

呉晩期永安三(260)年に侯官のある会稽南郡(会稽郡南部閩越地方を言う俗称)は建安郡として分離した。(呉志孫休伝:永安三年、以会稽南郡為建安郡、分宜都置建平郡」)

陳寿の「稽東冶」

後漢代に会稽郡東冶県はなくなるが、『呉志呂岱伝に「嘉禾四(235)年、廬陵賊李桓路合、稽東冶賊隨春、南海賊羅厲等一時並起」「会稽東冶賊呂合、秦狼等為乱」とあり、この「会稽東冶」を稽郡東治県のこととすると文意が通じない。

陳寿は稽東冶」を会稽郡南部閩越地方をいう成句として使っている。

東治の「東」

范曄のいう会稽郡東冶県(福建省福州市)の東は先島諸島あたりで、大較(おおむね)にしても倭地(日本列島)があると言うのは当たらない

范曄が陳寿のこの一文を中国側から見た倭地の位置を示しているとするのは、「東治之『東』」の『東』を方位のこととしか理解できなかったからである。

この『東』とは方位のことではなく、「東治」という表記の「東」のことである。

『呉志』孫輔伝の裴松之注に【典略曰、輔恐権不能保守江東、因権出行東治、乃遣人齎書呼曹公、行人以告権、乃還偽若不知、與張昭共見輔、権謂曰「兄、厭樂邪何為呼他人」、輔云「無是」、権因投書與昭、昭示輔、輔慙無辭、乃悉斬輔親近、分其部曲、徒輔置】とあ

<『典略』にいう。孫輔は孫権の江東を保守することが出来ないことを恐れ、孫権が東治』に出行している隙に、人を遣って書を齎(もた)らし曹公(曹操)と通じた。(使者となって)行った人が(このことを)孫権に報告した。(孫権は東治』から)還るとなにも知らないふりをして、張昭と共に孫輔に見えた。(そして)孫権は言った。「兄(あなた)はあいそうをつかされたのか、どうして他人と通じたりするのか」、孫輔は云った。「そんなことはありえない」、孫権は張昭に書を投げあたえ、張昭はそれを孫輔に示した。孫輔は慙(はじい)り、弁解の辞(ことば)もなかった。そこで孫輔の側近者を悉(ことごと)く斬罪し、其の部曲を分け、孫輔を徒(うつ)して』に置いた。

ここに「東治」と「東」が見える。

「東治」とあれば校勘記なしに「東冶」に改訂する百衲本三国志』も、この東治」は改訂していない。

典略がいう事件の背景は『呉志』孫権伝にいう「建安五年、曹公表権為討虜将軍領稽太守、屯呉」にあ

建安五(200)孫権の兄の孫策が逝去すると、曹公(曹操)は上表して孫権に兄の業を継がせ討虜将軍領(=兼)稽太守に任じ、呉郡の呉県(蘇州)に駐屯させた。

典略の要は、孫権が十九才という若さのためか、孫権の江東を保守することに危惧を抱いた従兄弟の孫輔が、稽太守の孫権が「東治」へ行った留守の間に曹操と通じようとしたことがばれて、孫輔は孫権の監視下に置くために孫権の駐屯する「東」に徒(うつ)された、ということです。

典略』のいう「東治」は、孫権が江東を保守するために駐屯した会稽・呉郡分離以前の会稽郡治である呉県(蘇州)のことである。

もとより会稽郡の郡治のある山陰(紹興)と、呉(蘇州)との位置関係は東西ではなく南北である

揚子江の下流域の南側を「江東」といい、江東の呉の地を東呉呼ぶ。

とは地方官の駐在するところ(治所)の意味である。(康煕字典:「治、州郡所駐曰治、如蜀刺史曰治成都、揚刺史曰治

孫権が会稽郡治山陰(紹興)を留守にして出かけた「東治」とは、「江東の治所」という意味である。(東冶(福州)は山陰(紹興)からはかなり遠い。

孫輔が「東」に移されたのは孫権の監視下に置くためであるから、孫輔が徒された「東」とは孫権が駐屯する呉の地のある江東」のことである。

「会稽東治」とは“会稽郡の江東の治所”ということで、「東治」という表記の「東」とは江東のことである。

黥面文身

陳寿は「自郡至女王二千」と「計其道里、稽東治之東」の間に、倭人の習俗である「黥面文身」に関する記事を挟んでいる。

この記事中に「夏后少康之子封於稽、髮文身以避蛟龍之害」という逸話を挿入している。

夏后少康子(無余)が会稽封じられたは父の少康禹の祭の絶祀を恐れてのことである。

紹興の会山に「大陵」があり、蘇州にはが祀られている「」がある。

陳寿が行程記事の最後に倭の習俗の黥面文身記事を挿入しているのは、「会稽東治」閩越地方を指す「会稽東冶」の間違いではなく、孫権が稽太守として駐屯した江東の呉の地、かつての“会稽郡の『東』の治所”であることを示唆してのことである。

ちなみに呉の太伯が季歴に王位を譲るため「文身断髪」した荊蛮とは、「東冶」のある閩越地方をいう。史記呉太伯世家:「呉太伯、太伯弟仲雍、皆周太王之子、而王季歴之兄也。季歴賢、而有聖子昌、太王欲立季歴以及昌、於是太伯・仲雍二人乃荊蠻、文身斷髮、示不可用、以避季歴。呉の太伯と太伯の弟仲雍は、皆、周の太王(古公亶父)の子にして、王季歴の兄なり。季歴は賢にして、聖なる子の昌あり。太王、季歴を立ててもって昌に及ぼさんと欲す。是に於て太伯・仲雍二人、すなわち荊蠻に奔り、身に文をして髪を断ち、用ふべからずを示し、もって季歴を避く(季歴に王位継承権を譲った)。」)

○其の道里を計るどうてい

陳寿と同時代、晋の司空(土木省長官)で地図学者の裴秀(224-271)は禹貢地域図十八篇の序文に地図作製の心得として「制有六焉。一曰分率、所以弁広輪之度也。二曰準望、所以正彼此之也。三曰道里、所以定所由之也。四曰高下、五曰方邪、六曰迂直、此三者各因地而制宜、所以校夷之異也。」(『晋書裴秀伝している。

裴秀のいう製図六体とは、

分率(縮尺の比率を定めること)

準望(方位を正すこと)

道里(二点間の距離を正すこと)

高下(坂道では水平の距離を求めること)

方邪(交差の角度を正すこと)

迂直(曲線区間では直線距離と方位を求めること)

「道里」には製図法の「二点間の距離を正すこと」の意味がある。

計る」数をかぞえる“の他に、“比べ調べるという意味がある。(『広雅』:「計、校也」)

 其の道里を計るとは、帯方郡治から女王国までの曲折した1万2千里を直線距離に伸ばして、二点間の距離を比べ調べるということである

」は動詞の前に置いてまさに云々すべしという断定、推測の意を表わす字。

在」とはまさに~が在るべしという、陳寿の確信的な断定である

陳寿は帯方郡治から女王国までの曲折した1万2千里直線に伸ばして比べ調べると、その地点は帯方郡治から「まさに会稽東治の東(江東の呉)に当たる」と断定しているのである

帯方郡治に比定されるソウルから江東の呉(蘇州)までは900である(グーグルマップ)。

900÷1200075/1

陳寿は計其道里、稽東治之東」の一文に、倭人伝に用いている里単位が「1里=75であることを示していたのである

0 件のコメント:

コメントを投稿