「又、南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国。」
<また、南に一海を渡ること千余里にして、名を瀚海という、一大国に至る。>
陳寿は渡海三海峡のうち、対海国(対馬)と一大国(壱岐)との間の海峡(対馬海峡東水道)だけを「瀚海」と名付けている。
『史記』匈奴伝の「漢驃騎将軍之出代二千余里、与左賢王接戦、漢兵得胡首虜凡七万余級、左賢王将皆遁走。驃騎封於狼居胥山、禅姑衍、臨翰海而還。」に注をした、唐の張守節になる『史記正義』に「按、翰海自一大海名、羣鳥解羽、伏乳於此、因名也。」とある。
張守節は、翰海(瀚海)は「一大海」より名づけられたという。
後漢の許慎になる中国最古の字書『説文解字』に「翰、天雞也、赤羽、从羽倝聲」とあり、「翰」は天雞(中国神話中の天の鶏)とある。
その『説文解字』に「天、顛也、至高無上、从一大」とあり、「一大」は天の異称、一・大の二字を合すると天の字になるからいう(『諸橋大漢和辞典』)。
『前漢書』王莽伝に「尋手理有天子字、莽解其臂入視之、曰、此一大子也」とあり、「天子」は「一大子」とも書かれる。
「一大国」は「天国」でもある。
壱岐をいう「一大国」は、倭国で「天国」と漢字表記していたのを、陳寿はそのまま「天」とするに憚ることでもあったのか、分解して「一・大」としたのではなかろうか。
陳寿は「一大」の表記が間違いではないことを示すために、一大国へ渡る海峡に「瀚海」と名付けておいたのではなかろうか。
〇天降る
記紀神話の「天降る」とは、天国から天国以外の土地へ赴くことをいい、天降る先は筑紫、出雲、新羅(曽尸茂梨)の三ケ所である。
これら三ケ所の中心に位置する対馬の小船越には「阿麻氐留神社」がある。阿麻氐留は「天照」である。壱岐の勝本町には「天ケ原」というバス停がある。高天原である。
天孫降臨は「高天原から筑紫への天降り」であり、壱岐の海士勢力の筑紫への侵入譚である。
末盧国には「魚鰒(アワビ)を捕るのを好み、水の深浅と無く、皆、沈没して之を取る」という「水人」と呼ばれる人がいる。
今、潜水漁をする海人・海士・海女を「あま」と読むのは、筑紫へ侵入した勢力が天(あま)と呼ばれていたからではなかろうか。
(余談)
『神皇正統記』の北畠親房は、古事記に見られる「伊邪那岐」の名は、仏教用語の「伊舎那天」の「天」が「岐」に転じたものだという。
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