1.「自女王国以北、特置一大率検察、諸国畏憚之、常治伊都国。」
「特置」と「常治」は対句である。
「常」は“常時。特別ではない。普通の。”という意である。
「治」は“地方官の駐在する役所”という意である。
「常治」とは、常(常時)は治所にいるということ。
「特置」を女王国(邪馬壹国)より以北の諸国(対海、一大、末盧、伊都、奴、不彌、投馬)に一大率が“特別に設置された”と解すると、諸国に置かれた一大率が常(常時)は伊都国の治所にいるというのも妙な話である。
そこで、「特」は「常(常時)」に対して“臨時”ということで、「特置」とは“臨時の措置”といった意味合いに解した。
“臨時”とは、「王遣使詣京都・帯方郡・諸韓国及郡使倭国、皆臨津。<王(卑弥呼)の遣使の京都(洛陽)・帯方郡・諸韓国(馬韓・辰韓・弁韓)に詣り、郡使の倭国へ及ぶに皆、臨津す>」る時である。
諸橋大漢和辞典に【臨津(リンシン)】とは、“わたし場に至る”の意とある。
水陸の交通に重要な地点を「津要」といい、要衝に設けて旅人を検査する関を「津関」という。
「津」は、必ずしも“船着き場”を意味するとは限らない。
京都(洛陽)や帯方郡や三韓に遣わされた卑弥呼の使者が帰国した時や、魏朝から遣わされた帯方郡使が来倭する時は皇帝から卑弥呼への下賜品を携えていた。
使者が携行した下賜品は諸国(対海、一大、末盧、伊都、奴、不彌、投馬)の「津」で引き継がれ、国から国へと次々に送られて卑弥呼まで届けられた。
卑弥呼の遣使や帯方郡使が倭国に至った時は、いつもは伊都国に治す一大率は臨時の措置として下賜品とともに諸国を巡回し、下賜品が引き継がれる諸国の「津」でこれを検察(閲する。吟味する。)した。
「捜露伝送文書賜遺之物、詣女王不得差錯。<伝送の文書と賜遺の物を捜露し、女王に詣るに差錯するを得ず>」は、臨時に措置された一大率の検察(閲する。吟味する。)の具体的な中身である。
「伝送」は、“次々に送る”の意。
「捜露」の「搜」は“しらべる。かぞえる。”という意、「露」は“あらわす。あらは。むきだし。”という意。
「捜露」とは、諸国を伝送されてきた下賜品の荷を露わにし、その中を調べ数えるということ。
「差錯」とは、“交わる。入り乱れる。互い違いになる”という意。
諸国の津で行われた一大率の検察(閲する。吟味する。)とは、諸国を伝送されてきた文書(下賜品の目録)と賜遺の物(下賜品)が女王卑弥呼にいたった時に差錯(交わる。入り乱れる。互い違いになる)がないように、文書(下賜品の目録)に書かれた品目どおりに下賜品の品数があるかを照合・点検することである。
諸国は一大率の検察を畏れ憚った。
諸国が畏れ憚ったのは、一大率の検察による「抜け荷」の発覚であろう。
2.「於国中有如刺史」
刺史は郡県制のしかれた秦代に郡の監察を職務とする監御史に由来し、前漢の武帝が全国(九十八郡)を十三州に分けた時に新設された郡太守の上級官で中央から派遣された地方行政官(使君と呼ばれた)。
その州に属する各郡を巡回し郡太守の職務の監察を主務とした。その官秩(かんちつ)は六百石であり、郡太守(秩二千石)よりも低かった。(『漢書』百官公卿表:「武帝元封五(BC106)年、初置部刺史、掌奉詔條察州、秩六百石、員十三人。」)
しかし、郡太守の職務を監察するという任務の性格上しだいに権力を持ち、漢霊帝のときの混乱時に際し、牧(刺史の別名)の劉虞らが幽・益・予などの各州の反乱を鎮めた。
この時以来、軍官も兼帯するようになって一州の全権を掌握するに至り、後漢末には郡太守よりも上位になった。
魏晋の時代も州内の郡太守を統括する上級行政官として権力がさらに大きくなり、なかには都督諸軍事の資格も兼ねて、軍事、行政、司法を握る強力なものになった。
西晋の太康元(280)年、武帝は呉を平定し統一を果たしたのを期に、地方官の帝権に対する反乱を未然に防ぐことを意図して、刺史と軍官の兼帯は禁じる詔勅を出した。
しかし、太康三(282)年7月に平州刺史の鮮于嬰が鮮卑の侵入を撃退したり、その9月に呉降将の反乱で揚州が包囲されたので徐州刺史が出動し鎮圧したりと、まだ刺史が将軍として機能していた。
ために、刺史の職掌を漢制に戻そうとする詔勅は何度か出た。
陳寿の三国志執筆時の晋の太康年間後葉には完全に軍官の兼帯は禁じられ、漢の時代のように非軍政官の郡太守の職務を監察してまわる単なる「郡見回り役」となった。
陳寿は倭国の官職である「一大率」について、「於国中有如刺史」としている。
これを国中(倭国中)には一大率とは別官の「刺史のような者」がいると解する向きもあるが、そうであれば「有如刺史」は「有如刺史者」となっている筈。(『後漢書』皇后紀:「斉桓有如夫人者六人。<斉の桓公は夫人の如き者六人有り>」)
「有如」は前出する対象を指して「まるで~ようである」というに用いる。
「於国中有如刺史」は前出の一大率が<国中(中国中)における、まるで刺史のようである>ということである。
陳寿は魏志巻十五(巻全体が刺史として名を顕した者の伝)の巻末評語で魏代の刺史について高く評価している。
「評曰、自漢季以來、刺史統諸郡、賦政干外。非若曩時司察之而巳。太祖創基迄終魏業績、此皆其流稱譽有名實者也、咸精達事機、威恩兼著、故能粛齊萬里、見述干後也。」
<評に曰く。漢の季(すえ)自り以来、刺史は諸郡を統べ、政を外に賦(し)く。嚢時(先の時代)の若く之を司察する而巳(のみ)に非ず。太祖が国家の基礎を創ってから魏の帝業が終わるまでの期間において、上の人々の評判はたてられ、名実ともに備わっていた。みな仕事の機微に精達し、威厳と恩恵がともに著われた。だからよく万里四方の地をひきしめととのえ、後世に語られたのである。>
陳寿の「於国中有如刺史」の一文は、「特置」されたときの一大率を陳寿の三国志執筆時(晋の太康年間)の刺史に比喩しての、晋代の読者を意識した「今の刺史は郡見回り役のようで何もしていない名誉職」と揶揄しているのである。
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