『前漢書』地理志:「樂浪海中有倭人、分爲百餘國。」
『魏志』倭人伝:「倭人在帶方東南大海之中、依山嶋爲國邑。」
〇楽浪郡
楽浪郡は漢の武帝が元封三(BC108)年、遼東から朝鮮半島北部支配していた衛氏朝鮮を滅ぼし、その地に郡県制をしいて玄莵郡、臨屯郡、真番郡とともに置かれた。(『前漢書』武帝紀:「(元封三年)夏、朝鮮斬其王右渠降、以其地為樂浪・臨屯・玄菟・真番郡。」)
『前漢書』地理志:《細字注》
「樂浪郡《武帝元封三年開。莽曰樂鮮。屬幽州》。戸六萬二千八百一十二、口四十萬六千七百四十八。《有雲鄣》。縣二十五。朝鮮、[言冄] 邯、浿水《水西至増地入海。莽曰樂鮮亭》、含資《帶水西至帶方入海》、黏蟬、遂成、増地《莽曰增土》、帶方、駟望、海冥《莽曰海桓》、列口、長岑、屯有、昭明《南部都尉治》、鏤方、提奚、渾彌、呑列《分黎山、列水所出、西至黏蝉入海、行八百二十里》、東暆、不而《東部都尉治》、蠶台、華麗、邪頭昧、前莫、夫租。」
今、楽浪郡治をピョンヤンの郊外、市街地とは大同江を挟んだ対岸にある楽浪土城とするに異論はみられない。
楽浪土城が楽浪郡治とされるのは、そこから官印「楽浪太守章」の封泥が大量に発掘されたからである。
封泥とは、古代中国で重要物品を入れた容器や公的内容を記した木簡・竹簡の束を送った時に、その荷物を紐で縛りその結び目に粘土を置き、その上から発信者の印を押して封緘するとともに、責任の所在を示す証明として用いられた粘土の塊のこと。
封泥は発送地で押され到着地で開封後捨てられるものであるから、「楽浪太守章」の封泥が大量に発掘されたということは、そこは楽浪郡ではないと考えるのが至当である
対馬の三根遺跡や壱岐の原ノ辻遺跡や九州北部の遺跡から、半島との通交の証である楽浪土器が出土する。
楽浪土器と呼ばれるのは、これが楽浪郡に比定される楽浪土城から出土するからである。
日本出土の楽浪土器は半島出土のそれよりも器形や胎土・焼成などが洗練されていることから、通常の生活用土器として持ち込んだものではなく、朝貢に対する返礼品として下賜された選ばれた土器との見方もある。
楽浪土器は帯方太守によって持ち込まれた卑弥呼への下賜品ではなかろうか。
『後漢書』光武帝紀に「楽浪郡、故朝鮮国也、在遼東」とあり、楽浪郡は故の朝鮮国すなわち衛氏朝鮮で、その地は朝鮮半島ではなく遼東半島にあった。
『後漢書』夫余伝に「安帝永初五年、夫餘王始將歩騎七八千人、寇鈔樂浪、殺傷吏民、後復歸附。<安帝の永初五(111)年、夫余王は歩騎7~8千人を将いて楽浪郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、後、復た帰附した。>」とある。
満州北方にいた夫余がピョンヤンを攻めるのは不可解であり、楽浪郡は遼東にあったと考えるしかない。
『魏志』濊伝に「自単単大山領以西属楽浪、自領以東七県、都尉主之。<単単大山嶺より以西は楽浪に属す、嶺より以東七県は都尉が之を主す。>」とある。
単単大山は長白山。長白山は中国吉林省・延辺朝鮮自治州と朝鮮民主主義人民共和国の両江道にまたがる休火山。 山頂付近に白い浮石が多い為、韓国、北朝鮮、中国の朝鮮族などでは「白頭山」と呼ばれ朝鮮民族の聖山となっている。
楽浪郡は長白山以東の七県を分かち楽浪東部都尉を置いて、楽浪郡は長白山以西の長白山一帯地方に遼東半島支配の拠点とした。
清朝末期の学者・張鳳台の撰になる『長白叢書』に、次のようにある。
「漢武帝元封三年滅朝鮮、分置楽浪・玄莵・臨屯・真番四郡、即在今奉省南蓋平・海城・復州等処。至昭帝始元五年、詔罷臨屯・真番、以併楽浪・玄莵。玄莵復徙属句麗。自単々大嶺以東:単々、満語珊延、音相近、即長白山:悉属楽浪、故楽浪地勢最為廣袤。旋復分嶺東七縣、置楽浪東部都尉。以其時其地考之、自今之海:蓋以東至長白山一帯地方:均属楽浪郡。漢時楽浪在奉天省城東北二千餘里、府治距奉天不過一千五百里、其為漢時楽浪郡無疑。」
<漢の武帝の元封三(BC108)年朝鮮を滅し、分かちて楽浪・玄莵・臨屯・真番の四郡を置く。即ち今の奉省南蓋平・海城・復州等処に在り。昭帝の始元五(BC82)年に至り、詔(みことのり)し臨屯・真番を罷(や)め、以って楽浪・玄莵に併す。玄莵また徙(うつ)りて句麗に属す。単々大嶺より以東、(単々は満語の珊延に音近し、即ち長白山なり)、悉く楽浪に属す。故に、楽浪の地勢最も広袤(こうぼう)たり。旋(めぐ)りて復た、嶺東七県を分かち、楽浪東部都尉を置く。その時その地を以てこれを考えうるに、自今の海、(蓋し、以東、長白山一帯地方に至るまで)、均しく楽浪郡に属す。漢時の楽浪は、奉天省城の東北二千余里に在り。府治は奉天を距(へだ)つこと千五百里に過ぎず。それ漢時の楽浪郡たること疑いなし。>
奉天は、今の遼寧省瀋陽市。
〇帯方郡
『魏志』韓伝に「建安中、公孫康分屯有県以南荒地為帯方郡、遣公孫模張敞等、收集遺民、興兵伐韓濊。旧民稍出、是後倭韓遂属帯方。」とあり、帯方郡は後漢の建安中(196-220)、遼東を支配していた公孫康によって楽浪郡の屯有県以南の帶方、列口、南新、長岑、提奚、含資、海冥の七県を分けて設置された。
1912年、ピョンヤンの南およそ60kmの大同江に程近い黄海道鳳山郡沙里院で「使君帯方太守張撫夷塼」と刻まれた煉瓦で作られた塼槨墓が発見され、この帯方太守張撫夷墓のある沙里院の南西約4㎞の黄海道鳳山郡智塔里の唐土城(智塔里土城)を帯方郡治址とする説もあった。
しかし、智塔里土城を帯方郡治とすると楽浪郡治とされる楽浪土城とは近すぎるということから、『前漢書』地理志・楽浪郡の細字注に「帯水西至帯方入海。<帯水、西して帯方に至って海に入る。>」とある帯水を漢江に当て、帯方郡治は漢江河口部のソウルの南の風納里土城とされる。
帯方郡を設置した公孫康の父、公孫度は黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立し、遼東王を自称した人物である。
遼東の盟主公孫氏にとってはるか南方のソウル地方の運営に興味があったというのも妙な話である。
『後漢書』高句麗伝に「郡國志西安平・帶方縣、並屬遼東郡。<郡国志では西安平、帶方県は遼東郡に並属す。>」とある。
『魏志』高句麗伝に「順・桓之間、復犯遼東、寇新安、居鄉、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」とあり、後漢・順帝の陽嘉元(132)年、遼東半島に侵攻してきた高句麗軍は西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で帯方県令を殺害し、楽浪太守の妻子を捕らえており、帯方県がソウル付近ではないことが窺い知れる。
帯方郡から狗邪韓国(釜山に比定)までの里程は七千里である。
陳寿は師の譙周の教えに従って、倭人伝の里単位を1里=75mとしている。
ソウル~釜山は直線距離で約320km。
320㎞÷7000里=45.7m
ピョンヤン~釜山は直線距離で約520km。
520km÷7000里=74.3m
今、楽浪郡治とされる楽浪土城が帯方郡治ではなかろうか。
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