「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。<倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に依って国邑をなす。>」
陳寿は東夷伝のうち倭国だけ「人」一文字を加えて「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑」と、書き出している。
ちなみに、陳寿が参考にしたとされる『魏略』は「倭在帯方東南大海中、依山島為国」である。
陳寿は何故、倭国だけに「人」をつけているのだろうか?
歴代史書は孔子の『春秋』を出発点として「前史を継ぐ」ことだという。
その史書の原点、『春秋』は中華の諸侯の国をいうときは「人」という字をつけるが、夷狄のときはそれをつけないという原則がある。
僖公三十三年の項に、「晋人、姜戎と、秦の師を殽に敗る。」とある。
姜や戎は中華の国ではないから「人」がつかないが、秦は中華の国である。なぜ秦人としなかったのか?
『春秋』を注釈した穀梁伝の解釈では、この戦いで秦は子女の教えをみだし、男女の別がなかったので、夷狄とみなしたという。
僖公十八年に、「邢人狄人、衞を伐つ」とある。
夷狄の代表とみなされた狄に「人」がついているのは何故か?
穀梁伝の解釈では、狄が衞を伐ったのは、斉を救う義挙だったからだという。
それでは陳寿はなぜ、東夷の倭国に「人」をつけているのだろうか?
陳寿は東夷伝序文に倭人伝編纂の目的を「雖夷狄之邦、而俎豆之象存、中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。<夷狄の邦と雖も、俎豆(礼法)の象を存す。中国が礼を失えば、之を四夷に求むるとも、猶信ず。故に其の国(倭の諸国)を撰次(順序を定めて書く)して、其の同異を列して、以て前史(前漢書)の未だ備えざる所に接せしむ。>」としている。
陳寿は倭国について、野蛮人の国のように見えても神をまつる祭器をもっている、孔子が中国で礼法が失われた時にこれを四夷(倭国のこと)に求めたというのも信じられるというものだとしている。
陳寿が「倭人」としているのは倭国を夷狄とはみなしてはいないからであるが、中国史書に「倭人」が登場するのは三国志の前史、後漢の班固(32-92)になる『前漢書』が初出である。
『前漢書』の地理志に「可貴哉、仁賢之化也。然東夷天性柔順、異於三方之外。故孔子悼道不行、設桴於海、欲居九夷。有以也夫。楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。<貴むべきかな、仁賢の化や。然して東夷の天性柔順にして、三方(北狄・南蛮・西戎)の外に異なる。故(いにしえ)、孔子は道の行われざるを悼みて、桴(いかだ)を海に設け、九夷に居らんと欲す。以(ゆえ)有る也夫(かな)。楽浪海中、倭人有り、分かれて百余国を為す、歳時を以って来たりて献見す、と云う。>」とある。
班固が「倭人」としているのは、倭国には中国の天子の「仁賢の化」が及んでおり、天性柔順な東夷(倭人)は北狄・南蛮・西戎の三方の夷狄とは異なるとしているからである。
「仁賢の化」とは夷蛮の国が中国の天子の徳を慕って貢物を持って礼を尽くしてくるということ。
「歳時を以って来たりて献見す」とは、定期的に貢物を持ってくるということ。
『前漢書』王莽伝に「莽復奏曰:太后秉統數年、恩澤洋溢、和氣四塞、絶域殊俗、靡不慕義。越裳氏重譯獻白雉、黄支自三萬里貢生犀、東夷王度大海奉國珍 」とある。
大后(元始年間(AD1-5)称制臨朝していた莽の伯母の元后)に朝貢して東夷王とは、大海を渡ってきたのであるから「楽浪海中」の“島夷の王、東倭の王”たる倭人である。
夷蛮からの朝貢を受けることは皇帝の徳を示すことと見なされ、朝貢国は中国の徳を慕ってしてきたものであり夷狄とはみなされなかった。
倭人はいつごろから朝貢をしていたのか。
班固と同時代の王充(27-91)になる『論衡』儒増篇に「周時、天下太平、越裳獻白雉、倭人貢鬯草。(周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す)」とあり、『論衡』恢国篇に「成王之時、越常獻雉、倭人貢暢。(成王の時、越裳、雉を献じ、倭人、暢を貢す)」とある。
成王(BC1115-1079)は周の第二代天子であり、倭人は紀元前1000年の昔からすでに中国に朝貢をしていた。
孔子(BC552-BC479)の死後、その門人によって編纂された『論語』に「孔子曰、道不行、乘桴浮於海、從我者其由也歟。言欲乘桴筏而適東夷。以其國有仁賢之化、可以行道也。」とある。
班固のいう「天性柔順」な九夷とは、孔子が筏に乗って行きたいという東夷の「倭人」である。
周代、周公の著作とされる『爾雅』に「一玄菟、二樂浪、三高麗、四満飾、五鳧更、六索家、七東屠、八倭人、九天鄙」とある。(『論語』子罕:「子欲居九夷、或曰、陋如之何【馬融曰、九夷、東方之夷、有九種也】。)
「倭人」は周の時代から夷狄とはみなされていなかった。(「倭」には“人に柔順に従う”の意がある。)
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