2018年9月2日日曜日

卑弥呼と卑弥弓呼

倭国には邪馬壹国の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼がいた。

倭国30国のうち、女王卑弥呼に属する邪馬壹国連合の最南に位置する奴国の南にあった男子を王とする狗奴国だけは、卑弥呼の倭王共立には与しなかった。(「其南有狗奴国、男子為王、其官有狗古智卑狗、不属女王」

女王卑弥呼と卑弥呼の倭王共立に異を唱える男王・卑彌弓呼は、新倭王の座めぐって争うことになった「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼、素不和」

この争いの最中の景初二(238)年六月、倭の女王卑弥呼は魏の天子の後ろ盾を求めるべく大夫難升米等を帯方郡に派遣し、魏の天子・明帝に朝献することを求めた。(景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻

公孫淵討伐の戦中にあった時の帯方太守の劉夏は部下を遣わし、大夫難升米等を魏の都・洛陽へ送らしめ「太守劉夏遣吏、將送詣京都」)、洛陽に到った難升米は天子・明帝に貢物を献上した(「奉汝所獻、男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。」)

 景初二(238)年十二月、病の床にあった魏の天子明帝は、卑弥呼を「親魏倭王」に制詔された(其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼」)。

「親魏倭王」に制詔された卑弥呼が「倭女王」とも「倭国女王」とも書かれるのは、倭国には狗奴国の男王・卑弥弓呼がいたからである。

 


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