1.帯方郡はどこ?
卑弥呼の時代、倭国と魏との通交の窓口である帯方郡は、後漢の建安中(196-220、公孫康の在位初年の205年か?)、公孫康によって楽浪郡の屯有県以南を分けて設置された。(『魏志』韓伝:「建安中、公孫康分屯有県以南荒地為帯方郡、遣公孫模張敞等、收集遺民、興兵伐韓濊。旧民稍出、是後倭韓遂属帯方。」)
今、楽浪郡治をピョンヤンの郊外、市街地とは大同江を挟んだ対岸にある楽浪土城に、帯方郡治は漢江河口部のソウルの南の風納里土城とするに異論はみられない。
しかし、帯方郡を置いた公孫康の父、公孫度は黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立し、遼東王を自称した人物である。
遼東の盟主公孫氏にとってはるか南方のソウル地方の運営に興味があったというのも妙な話である。
1912年、平壌の南およそ60kmの大同江に程近い黄海道鳳山郡沙里院で「使君帯方太守張撫夷塼」と刻まれた煉瓦で作られた塼槨墓が発見され、この帯方太守張撫夷墓のある沙里院の南西約4㎞の黄海道鳳山郡智塔里の唐土城(智塔里土城)を帯方郡治址とする説もあった。
『前漢書』地理志・楽浪郡の細字注に「帯水西至帯方入海<帯水、西して帯方に至って海に入る>。」とあり、この帯水を大同江のこととすると智塔里土城は帯方郡治とするに相応しい。
しかし、智塔里土城を帯方郡治とすると楽浪郡治とされる楽浪土城とは近すぎるということから、この帯水を半島中部を西に流れ下流で漢江に合流する臨津江にあて、帯方郡治は風納里土城とされるのである。
帯方郡がソウルに比定されるのは、単に、楽浪郡がピョンヤンに比定されるからである。
帯方郡との通交ルート上にある対馬の三根遺跡や壱岐の原ノ辻遺跡や九州北部の遺跡から、半島との通交の証である楽浪土器が出土する。
楽浪土器と呼ばれるのは、これが楽浪郡に比定される楽浪土城から出土するからである。(風納里土城からのは百済土器と呼ばれる。)
日本出土の楽浪土器は半島出土のそれよりも器形や胎土・焼成などが洗練されていることから、通常の生活用土器として楽浪人が持ち込んだものではなく、朝貢に対する返礼品として下賜された選ばれた土器との見方もある。
魏志倭人伝に「正始元(240)年、(帯方)太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮し、并に、詔賜の金、帛、錦[罒/剡]、刀、鏡、采物を齎す。」とある、
帯方太守弓遵が齎した采物とは、この楽浪土器のことではなかろうか。
『後漢書』高句麗伝に「郡國志西安平・帶方縣、並屬遼東郡<郡國志では西安平、帶方県は遼東郡に並属す>。」とある。
陳寿は倭人伝の里単位を1里=75mとしている。
帯方郡から狗邪韓国までの里程は七千里である。
ソウル~釜山は直線距離で約320km。
320㎞÷7000里=45.7m
ピョンヤン~釜山は直線距離で約520km。
520km÷7000里=74.3m
今、楽浪郡治とされる楽浪土城が帯方郡治ではなかろうか。
2.楽浪郡はどこ?
楽浪土城が楽浪郡治とされるのは、そこから官印「楽浪太守章」の封泥が大量に発掘されたからである。
封泥とは、文書や物を送った時の封印の一種で、主に秦・漢時代に盛んに行われ、書物や荷物を紐で縛りその結び目に粘土を置き、その上から発信者の印を押して封印するが、その印影が残った粘土の塊をいう。
封泥は発送地で押され到着地で開封後捨てられるものであるから、「楽浪太守章」の封泥が大量に発掘されたということは、そこが楽浪郡ではないと考えるのが至当である
『後漢書』光武帝紀に「楽浪郡、故朝鮮国也、在遼東」とある。
楽浪郡は故の朝鮮国すなわち衛氏朝鮮で、その地は朝鮮半島ではなく遼東半島にあった。
漢の元封三(BC108)年、武帝(BC159-87)が衛氏朝鮮を滅ぼし、その地に郡県制をしいて楽浪郡、玄莵郡、臨屯郡、真番郡の四郡を置いて直接統治した。(『前漢書』武帝紀:「(元封三年)夏、朝鮮斬其王右渠降、以其地為樂浪・臨屯・玄菟・真番郡<元封三(BC108)年夏、朝鮮、其の王右渠を斬りて降る。其の地を以て楽浪、臨屯、玄菟、真番郡と為す>。」)
前82年、四郡は朝鮮人・朱蒙(チュモン、初代高句麗王の東明聖王)の抵抗もあって、楽浪郡と玄莵郡の二郡に縮小せざるを得なかった。(『前漢書』地理志:「玄菟・楽浪、武帝時置、皆朝鮮・濊貉・句麗蛮夷。」)
『後漢書』夫余伝に「安帝永初五年、夫餘王始將歩騎七八千人、寇鈔樂浪、殺傷吏民、後復歸附<安帝の永初五(111)年、夫余王は歩騎7~8千人を将いて楽浪郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、後、復た帰附した>。」とある。
満州北方にいた夫余が平壌を攻めるのは不可解であり、楽浪郡は遼東にあったと考えるしかない。
後漢・順帝の陽嘉元(132)年、遼東半島に侵攻してきた高句麗軍は西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で帯方県令を殺害し、楽浪太守の妻子を捕らえている。(『魏志』高句麗伝:「順・桓之間、復犯遼東、寇新安、居鄉、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。<順帝と桓帝の間、度々遼東に侵犯し、新安や居郷で略奪し、西安平を攻めて、帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を誘拐した。>」)
『魏志』濊伝に「自単単大山領以西属楽浪、自領以東七県、都尉主之。<単単大山領(=嶺)より以西は楽浪に属す、領(嶺線)より以東七県は都尉が之を主す>」とある。
単単大山は長白山。長白山は中国吉林省・延辺朝鮮自治州と朝鮮民主主義人民共和国の両江道にまたがる休火山。 山頂付近に白い浮石が多い為、韓国、北朝鮮、中国の朝鮮族などでは「白頭山」と呼ばれ朝鮮民族の聖山となっている。
楽浪郡は長白山以東の七県を分かち楽浪東部都尉を置いて、楽浪郡は長白山以西の長白山一帯地方に遼東半島支配の拠点として313年に高句麗に滅ぼされるまで存続した。
遼東の楽浪郡が高句麗にとられて遂に亡ぶ(313)のと前後して、飛び地となった帶方郡も消滅した(314)。建興四(316)年、西晋滅亡。
清朝末期の学者・張鳳台の撰になる『長白叢書』に、次のようにある。
「漢武帝元封三年滅朝鮮、分置楽浪・玄莵・臨屯・真番四郡、即在今奉省南蓋平・海城・復州等処。至昭帝始元五年、詔罷臨屯・真番、以併楽浪・玄莵。玄莵復徙属句麗。自単々大嶺以東:単々、満語珊延、音相近、即長白山:悉属楽浪、故楽浪地勢最為廣袤。旋復分嶺東七縣、置楽浪東部都尉。以其時其地考之、自今之海:蓋以東至長白山一帯地方:均属楽浪郡。漢時楽浪在奉天省城東北二千餘里、府治距奉天不過一千五百里、其為漢時楽浪郡無疑。」
<漢の武帝の元封三(BC108)年朝鮮を滅し、分かちて楽浪・玄莵・臨屯・真番の四郡を置く。即ち今の奉省南蓋平・海城・復州等処に在り。昭帝の始元五(BC82)年に至り、詔(みことのり)し臨屯・真番を罷(や)め、以って楽浪・玄莵に併す。玄莵また徙(うつ)りて句麗に属す。単々大嶺より以東、(単々は満語の珊延に音近し、即ち長白山なり)、悉く楽浪に属す。故に、楽浪の地勢最も広袤(こうぼう)たり。旋(めぐ)りて復た、嶺東七県を分かち、楽浪東部都尉を置く。その時その地を以てこれを考えうるに、自今の海、(蓋し、以東、長白山一帯地方に至るまで)、均しく楽浪郡に属す。漢時の楽浪は、奉天省城の東北二千余里に在り。府治は奉天を距(へだ)つこと千五百里に過ぎず。それ漢時の楽浪郡たること疑いなし。>
奉天は、今の遼寧省瀋陽市。
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