「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。舊、百餘國、漢時有朝見者、今、使譯所通三十國。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国乍南乍東、到其北岸狗邪韓国。」
<倭人は帯方の東南(の方)大海の中にあり、山島に依って国邑をなす。・・・、郡より至倭に至る・・・、其の北岸の狗邪韓国に到る。>
朝鮮半島の南岸に位置する狗邪韓国を指していう「其北岸」の「其の」は、この文頭の「郡より倭に至る」の「倭」を指示するとし、“倭の北岸”と読むのが通説である。
しかし、「岸」とは水涯(みずべり)のことであって、「○○の北岸」とあれば○○が河川であればその北側の岸辺を指し、○○が島や中州であればその北部の岸辺を指すのが『三国志』における用例である。
(中州の西岸)
『魏志』蒋濟伝:「黄初三年、與大司馬曹仁征呉、濟別襲羨谿。仁欲攻濡須洲中、濟曰「賊據西岸、列船上流、而兵入洲中、是為自内地獄、危亡之道也。<黄初三(222)年、大司馬曹仁が呉を征伐したとき、蒋濟は別に羨谿を襲った。曹仁が濡須の中洲を攻めようとしたところ、蒋濟曰く:『賊は西岸に拠っており、船を上流に列べている。兵を中洲に入れれば、是は自らを地獄の内と為すもので、危亡の道である。』>」
(長江の北岸)
『魏志』王淩伝:「文帝踐阼、拜散騎常侍、出為兗州刺史、與張遼等至廣陵討孫權。臨江、夜大風、呉將呂範等船漂至北岸。<文帝が踐阼すると散騎常侍を拝命し、転出して兗州刺史となり、張遼等と廣陵に至って孫權を討った。長江に臨み、夜に大風となり呉將の呂範等の船が北岸に漂い至った。>」
(長江の南岸)
『呉志』陸抗伝:「鳳皇元年…晉巴東監軍徐胤率水軍詣建平、荊州刺史楊肇至西陵。抗令張咸固守其城;公安督孫遵巡南岸禦祜。<鳳皇元(272)年…、晋の巴東監軍徐胤が水軍を率いて建平に詣り、荊州刺史楊肇は西陵に至った。陸抗は張咸に命じて其の城を固守させ、公安督孫遵には南岸を巡って羊祜を禦がせた。>」
(長江の東西の岸)
『蜀志』先主伝:「二年春正月、先主軍還秭歸、將軍呉班・陳式水軍屯夷陵、夾江東西岸。<(章武)二(222)年春正月、先主は軍を秭歸に還し、將軍呉班・陳式の水軍は夷陵に駐屯し、東西の岸で長江を挟んだ。>」
陳寿は倭人伝冒頭で「倭人は帯方東南の大海の中にあり、山島に依って国邑を為す」と、倭国は朝鮮半島からみた大海の中の「山島」と明記しており、“倭の北岸”といえばそれは九州北岸を指すことになる。
半島南岸をして“倭の北岸”の解釈を迫られた内藤湖南は、倭国は半島南岸から九州北岸を領域とする海峡国家であるとすれば「こゝに其の北岸といへるは倭國の北岸をいへるなり」としている。
しかし、倭国30国をこの海峡国家に押し込めてしまうのは如何にも牽強にすぎる。
白鳥庫吉は「北岸の文字は穏やかではないけれど、これを倭韓両国に横たわる海洋の北岸とみれば文意は通ずる」と述べている。
日野開三郎も「魏志倭人伝にみえる「其の北岸」が海を基準としているとすれば、その基準となった海は玄海(または朝鮮海峡)でなければならぬから、狗邪韓国はまさにこの海の北岸にあるという事実に当てはまることになる。」と述べている。(『東洋史学』昭和二十七年六月「北岸~三国志・東夷伝用語解の一~」)
半島南岸をして「その北岸」と指示しえる名詞は、倭人伝冒頭の「倭人在帯方東南大海之中」の「大海」でしかあり得ない。
唐の李吉甫の撰した地理書『元和郡県志』登州の条に「西北微東至大海北岸都里鎮五百二十里。<西北の微(やや)東、大海の北岸の都里鎮に至る、五百二十里。>」とある。
〇「接」
『魏志』韓伝に「韓在帯方之南、東西以海為限、南与倭接。<韓は帯方の南にあり、東西を海をもって限りとなし、南、倭と接す。>」とあることから、韓と倭は半島南岸で“地続き”で国境を接しているとする説がある。
倭国は半島南岸から九州北岸を領域とする海峡国家であるとしたいのであろうが、「接」が“地続き”でなければならないことはない。
北宋王溥(922-982)の『唐会要』に「倭国東海嶼中野人、有耶古・波耶・多尼三国、皆附庸於倭。北限大海、西北接百済、正北抵新羅、南与越州相接」とあり、島国倭国の西北は大海を挟んで百済と接しており、南は東海を挟んで中国の越州と接している。
『旧唐書』南蛮伝に「訶陵國(ジャワ)在南方海中洲上居、東与婆利(バリ)、西与墮婆登(スマトラ)、北与真臘(カンボジア)接、南臨大海(インド洋)」とあり、この「接」はジャワとバリ、スマトラ、カンボジアが海を隔てて航路で結ばれているということである。
対馬からは晴れた日には互いが見渡せるほどに、倭韓は一衣帯水に近接している。
半島南岸の韓と一海を挟んで近接する倭との位置関係を表すには「南与倭接」とするしかない。
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