〇東治と東冶
陳寿は「自郡至女王国、万二千余里」について、(倭国の風俗である黥面文身の記事を挟んで)「計其道里、当在会稽『東治』之東<その道里を計るに、当(まさ)に会稽東治の東に在る>」と注釈している。
『魏志』倭人伝を参考にして『後漢書』倭伝をものしている范曄は、これを「其地大較在会稽『東冶』之東<其(倭)の地は大較(おおむね)会稽郡東冶県の東にある>」としていることから、魏志の「東治」は「東冶」の誤りとされる。
盧弼(1876 - 1967)の『三国志集解』には「治當作冶范書云。<范書(後漢書)の記事から見て「東治」とあるのは「東冶」に作るべきである。>」とある。
張元済(1867 - 1959)の百衲本『三国志』は宮内庁書陵部所蔵の紹煕本の影印本とされるのに、紹煕本に見られる「東治」が「東冶」に改訂されている。
北京中華書局発行の『新校本三国志』『校点本三国志』、清の梁章鋸撰・楊耀坤校訂『三国志旁証』も校勘記なしに「東冶」に改訂している。
岩波文庫の訳注『魏志』倭人伝も「東治とするものあるは東冶の誤」とする。
通説が「東治とするものあるは東冶の誤」とするのは「会稽東治」を「郡名・県名」のこととしか理解できなかったからである。
確かに会稽郡東冶県は存在しても、会稽郡東治県なるものは存在したことはない。
会稽郡は秦の始皇帝が天下を統一し郡県制を敷いた時の13郡の一つ。今の江蘇省から福建省を管轄とした。郡治は呉県(今の江蘇省蘇州)。
漢もそれを引き継ぎ、後漢の順帝永建四(129)年に会稽郡を今の上海あたりで南北に二分し、今の江蘇省にあたる北部を呉郡とした。以降、呉県は呉郡の治になる。
会稽・呉分離以降、会稽郡は今の浙江省以南となり、郡治は山陰(紹興)に移る。
東冶県は会稽郡26県の一つ。今の福建省閩侯県の東北、冶山の北麓の福州市附近。
東冶県は元は「冶県」という前漢代の名称で、後漢代になると侯官が置かれたので、正式名称も侯官もしくは東侯官になり「東冶県」というのはなくなる。
『呉志』孫休伝に「永安三年、以會稽南郡為建安郡、分宜都置建平郡」とあり、呉晩期の永安三(260)年には侯官のある会稽南郡(会稽郡の南部の閩越地方を言う俗称)は建安郡として分離した。
後漢代に会稽郡東冶県はなくなるが、『呉志』呂岱伝に「嘉禾四(235)年、廬陵賊李桓路合、会稽東冶賊隨春、南海賊羅厲等一時並起」「会稽東冶五県賊呂合、秦狼等為乱」とあるように、陳寿は「会稽東冶」を閩越地方をいう成句として使っている。
陳寿は「会稽東治」と「会稽東冶」を使い分けている。
「治」とは、地方官の駐在するところ(治所)の意味である。(康煕字典:「治、州郡所駐曰治、如蜀刺史曰治成都、揚刺史曰治会稽」)
陳寿のいう「会稽東治」とは、会稽の『東』の治所ということである。
『呉志』孫輔伝の裴松之注に【典略曰、輔恐権不能保守江東、因権出行『東治』、乃遣人齎書呼曹公、行人以告権、乃還偽若不知、與張昭共見輔、権謂曰「兄、厭樂邪何為呼他人」、輔云「無是」、権因投書與昭、昭示輔、輔慙無辭、乃悉斬輔親近、分其部曲、徒輔置『東』】とある。
<『典略』にいう。孫輔は孫権の江東を保守することが出来ないことを恐れ、孫権が『東治』に出行している隙に、人を遣って書を齎らし曹公(曹操)と通じた。(使者となって)行った人が(このことを)孫権に報告した。(孫権は『東治』から)還るとなにも知らないふりをして、張昭と共に孫輔に見えた。(そして)孫権は言った。「兄(あなた)はあいそうをつかされたのか、どうして他人と通じたりするのか」、孫輔は云った。「そんなことはありえない」、孫権は張昭に書を投げあたえ、張昭はそれを孫輔に示した。孫輔は慙(はじい)り、弁解の辞(ことば)もなかった。そこで孫輔の側近者を悉(ことごと)く斬罪し、其の部曲を分け、孫輔を徒(うつ)して『東』に置いた。>
ここに「東治」と「東」が見える。
ちくま学芸文庫『正史三国志』はこの「東治」も「東冶」に改訂しているが、「東治」とあれば校勘記なしに「東冶」に改訂する百衲本『三国志』はこの「東治」は改訂していない。
『典略』がいう事件の背景は『呉志』孫権伝にいう「建安五年、曹公表権為討虜将軍領会稽太守、屯呉」にある。
建安五(200)年、孫権の兄の孫策が逝去すると、曹公(曹操)は上表して孫権に兄の業を継がせ討虜将軍領(=兼)会稽太守に任じ、呉郡の呉県(蘇州)に駐屯させた。
『典略』の要は、孫権が十九才という若さのためか、孫権の江東を保守することに危惧を抱いた従兄弟の孫輔が、会稽太守の孫権が「東治」へ行った留守の間に曹操と通じようとしたことがばれて、孫輔は孫権の監視下に置くために孫権の駐屯する「東」に徒(うつ)された、ということです。
『典略』のいう「東治」とは、孫権が江東を保守するために駐屯した会稽・呉郡分離以前の会稽郡治である呉県(蘇州)のことである。(東冶(福州)は江東からはかなり遠い。)
もとより会稽郡の郡治のある山陰(紹興)と、呉(蘇州)との位置関係は、東西ではなく南北である。
揚子江の下流域の南側を「江東」といい、江東の呉の地を「東呉」と呼ぶ。
孫輔が「東」に徒されたのは孫権の監視下に置くためであるから、孫輔が徒された「東」とは孫権が駐屯する呉の地のある「江東」のことである。
孫権が会稽郡治の山陰(紹興)を留守にして出かけた「東治」とは、「江東の治所」という意味である。
「計其道里、当在会稽東治之東」の直前にある倭人の「黥面文身」に関する記事中の「夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害」にいう「会稽」は、今の紹興市にある会稽山付近を指している。
夏后少康の子(無余)が会稽に封じられたは父の少康が禹の祭の絶祀を恐れてのことであり、紹興の会稽山に「大禹陵」があり、蘇州には禹が祀られている「禹王廟」がある。
陳寿が黥面文身記事を挿入しているのは、「会稽東治」は閩越地方を指す「会稽東冶」の間違いではなく、孫権が会稽太守として駐屯した江東の呉の地のことであることを示唆してのことである。
これが「会稽東冶」であるならばこの一文は、風俗記事中の「所有無與儋耳・朱崖同」の付近にあるはずだ。
〇東治之『東』
魏志倭人伝の「計其道里、当在会稽東治之東<その道里を計るに、当(まさ)に会稽東治の東に在る>」を、後漢書の范曄は「其地大較在会稽東冶之東<其(倭)の地は大較(おおむね)会稽郡東冶県の東にある>」としていることから、陳寿はここで中国側からみた倭地の位置を示しているのが定説である。
しかし、范曄のいう会稽郡東冶県(福建省福州市)の東は先島諸島あたりで、陳寿のいう会稽東治(江蘇省蘇州市)の東もギリギリ九州の南端あたりで、大較(おおむね)にしても倭地(日本列島)があると言うのは当たらない。
そもそも陳寿は倭地の位置については倭人伝冒頭で「帯方東南、大海之中」と明記しており、現に日本列島は陳寿の言うとおり帯方郡から見た東南の大海の中にある。
定説がこの一文を陳寿が大陸側から見た倭地の位置を示しているとするのは、「東治之『東』」の「東」を方位のこととしか理解できなかったからである。
この「東」とは方位のことではなく、「東治」という表記の「東」のことで、孫権が会稽郡太守として駐屯した江東の呉の地のことである。
陳寿と同時代、晋の司空(土木省長官)で地図学者の裴秀(224-271)は、禹貢地域図十八篇の序文に地図作製の心得として「制図之体有六焉。一曰分率、所以弁広輪之度也。二曰準望、所以正彼此之体也。三曰道里、所以定所由之数也。四曰高下、五曰方邪、六曰迂直、此三者各因地而制宜、所以校夷険之異也。」(『晋書』裴秀伝)としている。
裴秀のいう製図六体とは、
①分率(縮尺の比率を定めること)
②準望(方位を正すこと)
③道里(二点間の距離を正すこと)
④高下(坂道では水平の距離を求めること)
⑤方邪(交差の角度を正すこと)
⑥迂直(曲線区間では直線距離と方位を求めること)
「其の道理」とは「自郡至女王国、万二千余里」の「万二千余里」を指しているが、「道里」には製図法の「二点間の距離を正すこと」の意味がある。
「計る」には「数をかぞえる」との意味の他に、「比べ調べる」という意味がある。(『広雅』:「計、校也」)
帯方郡から倭の女王国(邪馬壹国)までの「一万二千里」とは、
①帯方郡から東南の半島南岸の狗邪韓国まで7000里。
②狗邪韓国から南に渡海し対海国まで1000里、対海国から一大国まで1000里、一大国から九州北岸の末盧国まで1000里の『渡海3000里』。
③末盧国から東南に陸行して伊都国まで500里。
④伊都国から東南して奴国まで100里。
⑤奴国から東行して不弥国まで100里。ここまで10700里。
⑥不弥国から南へ「水行20日」して投馬国、投馬国から南へ「水行10日陸行1月」して目的地の邪馬壹国に至るまでの『水行陸行1300里』のジグザグと曲折した道のりの総距離である。
「其の道里を計る」とは、帯方郡治から女王国までの曲折した12000里を直線距離に伸ばして、二点間の距離を比べ調べるということである。
「当」は動詞の前に置いて“まさに云々すべし”という断定、推測の意を表わす字。
「当在」とは“まさに~が在るべし”という、陳寿の確信的な断定である。
陳寿は帯方郡治から女王国までの曲折した1万2千里を直線に伸ばして比べる調べると、その地点は帯方郡治から「まさに会稽東治の東(江東の呉)に当たる」と断定しているのである。
帯方郡治に比定されるソウルから江東の呉(蘇州)までは約900㎞である(グーグルマップ)。
900㎞÷12,000里=75m/1里
部分里程のうち、当時と今でも2地点間の距離が変わらないのは半島南岸(狗邪韓国)から九州北岸(末盧国)までの『渡海3000里』である。
狗邪韓国は釜山に末盧国を唐津に比定するのが定説であるから、釜山から唐津を直線的に結ぶ海峡幅は約225㎞である(グーグルマップ)。
海峡幅225km÷渡海3000里=75m/1里
陳寿は「計其道里、当在会稽東治之東」の一文に、倭人伝に用いている里単位が「1里=75m」であることを示していた。
***
白鳥庫吉(『倭女王卑弥呼考』1910年:「一体倭人伝に見える魏使経行の里程や、不弥国から邪馬臺国までの日程に非常な誇張があることは何に依るのであらうか。魏代の一里は漢代の一里と大差なく、漢の一里は略々我が三町四十八間に当たると見て大過ないと思われるが・・・斯かる短い単位を以てしても実際の距離を換算して見るにやはり著しい誇張がある。玆に一々数字を挙げて見るまでもなく、現行の正確なる地図・海図等に拠り、最も普通なる航路を測って之を魏里に引き直してみると約五倍の誇張がある。」
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