5.「倭人」の国
陳寿は東夷伝のうち倭国だけ「人」一文字を加えて「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。<倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に依って国邑をなす。>」と、書き出している。
(東夷諸国伝の書き出し)
・夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與挹婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里。
・高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮・濊貊、東與沃沮、北與夫餘接、都於丸都之下、方可二千里。
・東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。其地形東北狹、西南長、可千里、北與挹婁、夫餘、南與濊貊接。
・挹婁在夫餘東北千餘里、濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。
・濊南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海、今朝鮮之東皆其地也。
・韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。
「倭人」が史書に登場するのは後漢の班固(32-92)になる『前漢書』の「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。」である。
楽浪郡の彼方の海の中に「倭人」という国があり、百余国に分かれていて年ごとに貢物を献じて朝見してくると云う。
この倭人の献見(貢献)について、班固と同時代の王充(27-91)になる『論衡』儒増篇に「周時、天下太平、越裳獻白雉、倭人貢鬯艸。<周の時、天下太平、越裳、白雉を献じ、倭人、鬯草を貢す。>」とある。(『論衡』恢国篇は「成王之時、越常獻雉、倭人貢暢。<成王の時、越裳、雉を献じ、倭人、暢を貢す。>」)。
倭人は周の第二代天子・成王(BC1115-1079)の昔から中国に鬯草(暢草)を貢ぎ物として献じていた。
周の時代を記した孔子の『春秋』は中華の諸侯の国をいうときは「人」という字をつけるが、夷狄のときはそれをつけないという原則がある。
僖公三十三年の項に、「晋人、姜戎と、秦の師を殽に敗る。」とある。
姜や戎は中華の国ではないから「人」がつかないが、秦は中華の国である。
なぜ秦人としなかったのか?
『春秋』を注釈した『穀梁伝』の解釈では、この戦いで秦は子女の教えをみだし、男女の別がなかったので、夷狄とみなしたという。
僖公十八年に、「邢人狄人、衞を伐つ」とある。
夷狄の代表とみなされた狄に「人」がついているのは何故か?
『穀梁伝』の解釈では、狄が衞を伐ったのは、斉を救う義挙だったからだという。
これが春秋の筆法(孔子の筆法)の「一字を以って褒貶を為す」という、一字を変えることにより、そこに隠された意味をもたせるという筆法。
それでは何故、東夷の倭に「人」がついたのか。
『前漢書』の「樂浪海中有倭人、・・・」の記事の直前に「可貴哉、仁賢之化也。然東夷天性柔順、異於三方之外。故孔子悼道不行、設桴於海、欲居九夷。有以也夫。」とある。
<貴ぶべきかな、(箕子の)仁賢の化や。然して東夷の天性柔順にして、三方(北狄・南蛮・西戎)の外に異なる。故に、孔子は道の行われざるを悼みて、桴(いかだ)を海に設け、九夷に居らんと欲す。以(ゆえ)有る也夫(かな)。>
ここに同じ夷狄でも東夷は天性が柔順で他の北狄・南蛮・西戎とは異なるとある。
東夷には九種ある。(『論語』子罕:「子欲居九夷、或曰、陋如之何【馬融曰、九夷、東方之夷、有九種也】。」
九種について、周公の著作とされる『爾雅』に「夷有九種、一玄菟、二樂浪、三高麗、四満飾、五鳧更、六索家、七東屠、八倭人、九天鄙」とあり、八の倭に「人」が付いている。
孔子が「中国では私が説く道は行われそうもないので、いかだに乗って海の彼方の九夷に住みたいものだ」という九夷は、『爾雅』にいう八の「倭人」である。
夷蛮からの朝貢を受けることは天子の徳を示すことと見なされ、朝貢国は中国の徳を慕ってしてきたものであり夷狄とはみなされなかった。
周の時代から朝貢してきた倭国は東夷九種のなかでも一人、夷狄とはみなされていなかった。
陳寿は「倭人伝」編纂の目的を東夷伝序文に「雖夷狄之邦、而俎豆之象存、中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。」としている。
<夷狄の邦と雖も、俎豆(礼法)の象を存す。中国が礼を失えば、之を四夷に求むるとも、猶信ず。故に其の国を撰次(順序を定めて書く)して、其の同異を列して、以て前史(前漢書)の未だ備えざる所に接せしむ。>
陳寿は、倭国は野蛮人の国のように見えても神をまつる祭器をもっている、孔子が中国で礼法が失われた時にこれを四夷(九夷?)に求めたというのも信じられるというものだとしている。
陳寿が東夷伝のうち倭国だけ「倭人」としているのは、倭国を夷狄とはみなしてはいないからである。(『魏略』は「倭在帶方東南大海中、依山島爲國。」とする。)
〇倭人と倭種
陳寿は倭人の国を「旧、百余国、漢時有朝見者、今、使訳所通三十国」とする。
通説はこの一文を、倭国は旧(漢の時代)に百余国あったが、今(魏の時代)は使訳を通わせてきた三十国に収斂していたとする。
しかし、三十国とは女王卑弥呼が都する邪馬壹国と卑弥呼に属する対海国・一大国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国の29国と女王卑弥呼に属さない狗奴国であるが、この列島にはこの三十国以外にも「倭種」の国々があった。(「女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種」)
倭国は魏の時代に三十国に収斂していたわけではない。
「旧」と「今」は対句をなしている。
この一文は陳寿の地の文であり、この「旧」と「今」を時制とすると、この「今」は陳寿が三国志を執筆している晋の時代と解釈するほかはない。
「今」には「いま」という時制の辞のほかに、「ここに」という指示の辞の意もある。(諸橋大漢和辞典:【今】①いま。②ここに。指示の辞。〔経伝釈詞〕:「今、指示之詞也」)
「旧、百余国、漢時有朝見者」の元記事は『前漢書』の「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」であり、陳寿は『前漢書』を指して「旧」としている。
旧(前漢書)と対句をなす「今」は「ここでは」ということで、陳寿が執筆中の『魏志』そのものを指している。
「旧、百余国、漢時有朝見者、今、使訳所通三十国」は、「倭人」とは旧(前漢書)には百余国とあり、その中には漢の時代に朝見してきた者もあったとするが、今(ここ、魏志では)、その使訳を通わせてきたという三十国を「倭人」とする、ということである。
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