●金印「漢委奴国王」
天明四(1784)年に志賀島から出土した国宝の「漢委奴国王」の蛇鈕の金印は、『後漢書』倭伝に「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬。」とある、中元二(57)年に“倭奴国”が後漢初代皇帝の光武帝劉秀から賜ったものである。
金印には一部に贋作説もあったが、1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で出土した中元三(58)年に光武帝の子劉荊に下賜された「廣陵王璽」の亀鈕の金印の円い鏨(たがね)の文様や字体が「漢委奴国王」の金印と似通っていることから、同じ工房で制作された可能性が高いとされ贋作説に終止符が打たれた。
印刻の「委」は「倭」の省画とされ「漢委奴国王」は「漢の委(ワ)の奴(ナ)の国の王」と読んだ三宅米吉説が定説となっている。
三宅が「奴」を「ナ」と読むのは、金印が出土した志賀島あたりが古くは儺県と呼ばれていたことによる。
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三宅米吉『漢委奴国王印考』明治25年12月:「漢委奴国王の五字は宜しく『漢の委の奴の国の王』と読むべし。委は倭なり。奴の国は古の儺県、今の那珂郡なり。後漢書なる倭奴国も倭の奴国なり。」
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しかし、「奴」の字音は呉音(ヌ)、漢音(ド)であり、「奴」を「ナ」と読む辞書はない。
金印が儺県から出土したからといって、金印の「奴」だけは例外的に「ナ」と読むのは恣意的である。
発見された当時(1784年2月)、福岡藩の亀井南冥は『金印弁』のなかで“委奴”の読み方を「ヤマト」としている。
4月に京都の藤貞幹が委奴を「イト」と読む「伊都国」説を提唱、翌5月には大阪の上田秋成も『漢委奴国王金印考』で「此委奴ト云ハ皇朝ノ称号ニアラズ、当今筑紫ノ里名ニテ魏志ニ云 伊都国是也、伊都国ト云ハ 和名抄ニ筑前国怡土郡アリ」と論じている。
亀井南冥も後に伊都(イト)と読み改めている。
●「倭」の字音
辞書には「倭」の字音は呉音読みでも漢音読みでも「ワ」と「イ」の両読みとある。
中国語の漢字音は上古音でも中古音でも一字一音節が原則であり、一つの漢字が完全に違う発音を複数もつということはない。(例外的に同じ文字でも動詞か名詞かで発音が違うことはある。銀行の行〈北京語hang,広東語hong〉と「行く、行う」のxing。)
「倭」は両読みではなく「イ」が呉音(上古音)で、「ワ」が漢音(中古音)ではなかろうか。
後漢の許慎になる最古の部首別漢字字典の『説文解字』(和帝の永元12(100)年成立)に「倭、順兒(すなお)、从人委聲<人に从(したが)い、委の声>」とあり、「倭」は委(イ)という音符に人偏がついて出来た字である。
『説文解字』は「倭」も委音十四字の一つとしており、「倭」は上古音で委(イ)と発音されていた。
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〔『前漢書』地理志〕
・樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。【如淳曰:如墨委面、在帶方東南萬里。臣瓚曰:倭是國名、不謂用墨、故謂之委也。師古曰:如淳云如墨委面、蓋音委字耳、此音非也。倭音一戈反、今猶有倭國。】
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『前漢書』の「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云」に対して、上古音の時代の魏の如、晋の臣瓉と中古音の時代の唐の顔師古が注を付けている。
魏の如淳が倭人は「如墨委面(墨刑のように委面(顔の入れ墨)をしている)」としているのに対し、晋の臣瓉は「倭是国名、不謂用墨、故謂之委也(倭という国名は、入れ墨をしているからいうのではない、故(もと)は倭を委といったのだ)」としている。
唐の顔師古は「如淳云、如墨委面、蓋音委字耳、此音非也(如淳が倭の由来を「如墨委面」と云うのは、委字の音のみからだろうが、この音は非なり)」としたうえで、「倭音一戈反」と音注を付けている。
この音注は漢字の音節(字音)表記法で反切法と呼ばれ、「A 音 B・C 反」とは「A 字の音は、B字の声母と、C字の韻尾を結合した音」ということを表している。
すなわち「倭音一戈反」とは、倭の音は一(i-et)と戈(k-ua)の反(i+ua)の「iuaワ」だということ。
如淳や臣瓉の魏晋の時代の上古音では「イ」と発音されていた「倭」は、顔師古の唐の時代の中古音では「ワ」と発音するように変化していた。
諸橋大漢和辞典に『詩経』小雅四牡之詩の「四牡騑騑、周道倭遅」の「倭遅」は「イチ」と読むとある。
上古音から中古音に音韻変化が起こっている文字も、連綿語では成句としてのトーンが重視され、使われなくなった古い発音がいつまでも残る傾向がある。
今、倭遅の倭を「イ」と読むのは上古音の名残りではなかろうか
●「奴」の字音
辞書には奴の字音は呉音(ヌ)、漢音(ド)とあるが、逆ではなかろうか。
普通は清濁が対立するときは大地・土星・上陸のように濁っているのが呉音(上古音)、大会・土地・上人のように濁っていないのが漢音(中古音)である。
諸橋大漢和辞典に「奴」で形声する文字(努怒呶孥帑弩拏駑・・・)のうち、金品をしまっておく蔵を意味する「帑」は「ト」と読むとある。
『説文解字』に「帑、金幣所藏也、从巾奴聲」とあり、「帑」は「奴」と発音するとある。
今、「帑」を「ト」と読むのは上古音の名残ではなかろうか。
漢字は偏が相違するだけで音符が同じ漢字(形声文字)は、基本的に同音である(去声と入声、声母の清濁による細かい「音の違い」はある)。
「奴」は呉音(上古音)では「ド・ト」と発音されていた。
現代中国の標準語(普通話、国語)である北京音には音韻としての濁音がなく、漢音(中古音)である唐の長安の音とかなり近いという。
現代北京語では奴は「Nu」と発音する。「奴」は漢音(中古音)では「ヌ」と発音されていた。
飛鳥藤原宮跡から出土した木簡に伊委之(イワシ)知奴(チヌ)とみえる。
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他に、阿遅(アジ)阿由(アユ)伊加(イカ)伊貝(イガヒ)伊伎須(イギス)河鬼(カキ)加麻須(カマス)久己利(クコリ)佐米(サメ)須ゝ支(スズキ)多比(タヒ)黒多比(クロタヒ))津備(ツビ)尓支米(ニギメ)乃利(ノリ)布奈(フナ)富也(ホヤ)弥留(ミル)等。
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藤原宮は持統天皇八(694)年から元明天皇が平城宮に遷る和銅三(710)年まで用いられたから、木簡には遣唐使の持ち帰った唐代の中古音が用いられている筈。
今、大谷大学に現蔵の銅印駝鈕の「漢匈奴悪適尸逐王」の印文は「漢の匈奴(キョウド)の悪適尸逐王」と読まれる。
印文は、授与する側(中国の天子)と授与される側(夷蛮の長)の二者の関係を示すもの。
上古音の時代に作られた金印蛇鈕の「漢委奴国王」の印文は「漢の委奴(イト)の国王」と読む。
『後漢書』なる倭奴国も倭奴(イト)国なり。
『旧唐書』倭国伝に「倭国者、古倭奴国也」とある。
『新唐書』日本伝に「日本、古倭奴也」とある。
〇倭国と日本国
中国語の漢字音は漢民族の音(上古音という)の上に、異民族である北方民族の鮮卑・匈奴の音が載り、形声文字の細かな音の違いが変化して、ある文字は上古音とは違う音になる。このような形で生まれた北方系の発音を中古音という。
魏・蜀・呉が覇権を争うことになる三国時代の前夜、プレ三国時代ともいうべき漢末の動乱時、中国華北に鮮卑・匈奴などの北方民族が流入しはじめ漢民族は激減した。
220年、曹操の死後、曹丕が漢の献帝より禅譲を受けて皇帝(文帝)となり、魏を建国した。翌221年、劉備も漢の後継者と称し皇帝に即位し蜀を建国した。222年呉の孫権も帝位を宣言し、三国鼎立の状態となった。
三国時代を通じて北方民族の流入はみられた。
263年、蜀が魏に滅ぼされ、265年、魏が晋の司馬炎に帝位を禅る。
280年、晋が呉を滅ぼし天下を統一した。
晋が八王の乱で衰退していくと、華北は完全に鮮卑や匈奴などの北方民族が支配するようになった。
316年、漢民族の晋は匈奴に滅ぼされ、首都洛陽を追われた司馬睿は揚子江流域の呉の地に遷り、東晋を建てた(都、建康、今の南京。それまでの晋を西晋と呼ぶ)。
華北では五胡十六国が乱継続し、386年、北魏が建国し、439年、その北魏が華北を統一した。
華南では420年、東晋から宋に移り、南北朝時代となる。(鮮卑族の北朝は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝。漢人の南朝は宋・斉・梁・陳の四王朝が興亡、呉・東晋朝を合わせて六朝時代。)
南北朝の時代に漢字音はそれぞれの地方で独自の変化をしたが、漢民族の南方系はそれほど変化しなかった(上古音を色濃く残していた)。
上古音とは詩経や楚辞あるいは辞賦などを資料とし推定された音韻体系(詩経音系)である。
三国時代が上古音から中古音への変遷期とみる向きもあるが、魏晋時代の歌謡などの押韻パターンは去入の押韻がかなりあり、去声の多くが濁音韻尾を保持していた可能性が強く、ほぼ完全に上古音の体系になっている。
上古音から中古音への変遷期は五胡十六国の時代で、それも華北において顕著であったと見るべきであろう。
〇切韻
589年、南北朝は北朝系の隋により統一された。
隋の仁寿元(601)年、陸法言・顏之推らによって中国最初の韻書(発音辞典)である切韻が編纂された。
切韻に「秦人は、去声も入声(「k、t、p」の子音で終わる音節のこと)のように発音する」と書かれており、秦人にも濁音韻尾の上古音の体系が残っていた。
つまり、切韻成立の隋の時代には濁音はほぼ消滅していたと推定される。
切韻は、唐の時代に増補され唐韻(732年成立)と称された。
唐代には韻書の他に日本語の五十音図に相当する韻図が盛んに作られ、その一部は現存していることから、この時代の漢字音はよくわかっている。
中古音は韻書や韻図を資料とする唐代の音韻体系で「隋唐音」「隋唐代標準音」とも呼ばれている。
唐の長安の発音は、声母の清濁がほぼ消滅し、次濁声母(鼻音)が鼻濁音化した。
唐(618-907)の時代になると異民族であった北朝系を歴代王朝として正当化する為に、自分たちが使用した鮮卑・凶奴の音が混じった発音を「漢音」と称し、漢民族の音である南朝系の使用した言葉に「呉音」のレッテルを貼った。
唐の李涪は『刊誤』の中で切韻の発音を「呉音」であるとし、「然呉音乖舛、不亦甚乎。上声為去、去声為上<呉音の間違いはまたひどいものではないか、上声を去声とし、去声を上声とするとは>。」とか、長安では「何須東冬中終、妄別声律<東と冬を分ける切韻のような、ややこしい韻の区分をしてはいない>」と述べている。
だからこそ、切韻は科挙の基礎ともなった。
〇呉音と漢音
平安時代後期の公卿大江匡房の『対馬貢銀記』に「欽明天皇之代、仏法始渡吾土、此島有一比丘尼、以呉音伝之、因茲日域経論、皆用此音、故謂之対馬音」とあり、欽明天皇の時代に対馬の比丘尼が「呉音」で仏教を伝えたとある。
平安時代に編纂された『日本紀略』延暦十一(792)年に桓武天皇は「勅。明経之徒、不習正音、発声誦読、既致訛謬、(宜)熟習漢音。<勅す。明経(経書を学ぶこと)の徒は、正音を習わず、誦読を発声するに、既に訛謬に致す。宜しく漢音を熟習すべし。>」と勅命したとある。
日本語の「漢音」は遣唐使が持ち帰った北朝系の長安の標準語を正音(正しい音)としたもので、それ以前に伝わっていた南朝系の音を「呉音」と呼んだ。
遣唐使の持ち帰った「漢音」を漢字を読む「正音」としたが、桓武天皇の時代になっても中国の儒教の経典を学ぶ「明経の徒」は正音を習わず、中国の儒者たちと同じく経典を誦読するために呉音を使用していた。
『日本後紀』延暦十二(793)年には、「制、自今以後、年分度者、非習漢音、勿令得度。<制す。今より以後は、年分度者(その年に出家を認められた人)は、漢音を習わずは、得度をせしむことなかれ。>」と、僧侶も漢音を学ばなければ得度できないと定められた。
しかし、仏教の経典はリズムよく誦読するように呉音(上古音)で押韻されており、すでに普及したお経の読み方はそう簡単には変わらず、仏教語の漢字音に呉音読みが残った。
日本語の漢字音に呉音読みと漢音読みがあるのはこのためである。
〇文字の伝来
『隋書』倭国伝に「無文字、唯刻木結繩。敬仏法、於百済求得仏経、始有文字」とあることから、百済より仏経が伝来する以前には、我が国には文字がなかったとされる。
しかし、隋書の記事は記紀の文字伝来記事と対応しない。
我が国への仏教伝来については、552年と538年の二説ある。
一つは、日本書紀欽明十三年に「冬十月、百済聖明王、更名聖王、遣西部姫氏達率怒唎斯致契等、献釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻」とあり、欽明天皇十三(552)年に百済の聖明王が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教を伝えたとある。
一つは、上宮聖德法王帝説に「志癸嶋天皇(欽明天皇)御世戊午年十月十二日、百済国聖明王、始奉度仏像経教并僧等」とあり、欽明天皇の御世の戊午の年(538)とある。
元興寺伽藍縁起并流記資財帳に「大倭国仏法創、自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月、度来。百済国聖明王時、太子像并灌仏之器一具及説仏起書巻一筐度」とあり、百済の聖明王が仏教を伝えたのは欽明天皇の七年(546)とあるが、干支年は戊午(538年)とある。
文字の伝来については、日本書紀応神十五(284)年に「阿直岐亦能読経典、即太子菟道稚郎子師焉」とあり、経典を能く読む百済の王子阿直岐が入朝し太子菟道稚郎子の師となったとある。
翌十六(285)年には「春二月、王仁来之、即太子菟道稚郎子師之、習諸典籍於王仁」とあり、王仁が諸典籍を持ち来たりたとある。
285年に王仁(和邇吉師)が献じた諸典籍について、古事記応神記に「亦百済国主照古王、以牡馬一疋、牝馬一疋、付阿知吉師以貢上。亦貢上横刀及大鏡。又科賜百済国若有賢人者貢上。故、受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十巻、千字文一巻、并十一巻付是人即貢進」とある。
『論語』は孔子の死後、孔子の言行を弟子が記録した書物である。
『千字文』は魏の鍾繇(151-230)
になる漢字の習本ととして用いられた、1000の異なった文字からなる漢文の長詩である。
今に残る『二儀日月千字文』は、巻首に「魏大尉鍾繇千字文・右軍将軍王義之奉勅書」とあり、魏の鍾繇の千字文を晋の王義之が勅を奉じて書いたものである。
一般に知られる千字文は「二儀日月」ではなく、梁の周興嗣(470-521)が武帝の勅を奉じて、魏の鍾繇の『千字文』を韻に従い順序を正したという、「天地玄黄」という言葉で始まるもの。
日本の地名や人名の漢字音には中国上古音に由来するといわれる「古音」と呼ばれるものがある。(講談社漢和辞典「日本漢字音の分類」:「奇(ケ)、宜(ガ)、居(ケ)、挙(ケ)、思(ソ)、移(ヤ)、己(ヨ)、里(ロ)、川(ツ)、止(ト)」)
平仮名は漢字の草書体から派生した。
平仮名・片仮名の「つ・ツ」の元の字は「川」であり、「と・ト」の元の字は「止」である。
前漢代末には草書の源流である速写体の「草隷」があり、平仮名の「つ」や「と」は前漢代末には漢字が伝来していたことの名残ではなかろうか。
魏志倭人伝に「伝送文書・賜遺之物、詣女王」とある魏から伝送されてきた文書には、鍾繇の『千字文』が含まれていたのかもしれない。
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