4.邪靡堆と邪摩惟
『隋書』の成立から40年後の儀鳳元(676)年、唐高宗と則天武后の次男、章懐太子・李賢(654-684)は『後漢書』の「邪馬臺国」に「案今名邪摩惟音之訛也」と注をしている。
通説は、李賢注の「邪摩惟」は『隋書』のいう「邪靡堆」の誤りとし、さらに通説は『隋書』の「靡」は「摩」の誤りとしたうえで、この李賢注を「案ずるに、今(唐代)の名の邪摩堆は、音の訛りなり」と読んでいる。
そして通説は、隋唐の時代に倭都の表記が「邪摩堆」となったのは、当時の倭国使の倭都を言う発音にそれまでの「邪馬臺」とは違う「訛り」があったからだという。
しかし、「訛り」とは標準語とは異なる発音のことであり、「音の訛」とは同じ言葉が変化して本来の姿をかえて発音をすることである。
「音の訛」をいう李賢注に「涼州城昔匈奴故蓋臧城、後人音訛、名姑臧也」とある。
匈奴の古城の蓋臧城の名の部分の「蓋臧」を、後の人が発音を訛り、城の名が「姑臧」に変化したということであり、蓋(ガイ)と姑(コ)は明らかに「音の訛」である。
通説の邪摩堆(ヤマタイ)には、邪馬臺(ヤマタイ)との「音の訛」はない。
そもそも李賢は『後漢書』の「邪馬臺国」を案じているのである。
「今」には“ここに”という指事の辞の意味もある。
今名(この名)とは、案じた対象の「邪馬臺国」の名の部分の「邪馬臺」のことである。
李賢注の邪摩惟(ヤマイ)は、『隋書』の邪靡堆(ヤメタイ)の字面を意識した『魏志』の邪馬壹(ヤマイ)の“音当て”である。
李賢注は「この名(=後漢書の邪馬臺)を案ずるに、邪摩惟(ヤマイ=魏志の邪馬壹)の音の訛なり」と読む。
臺(タイ)と壹(イ)は全く違う「音の訛」である。
『隋書』の「邪靡堆」に倣った「邪摩惟」の字面には、魏徴の“『魏志』の「邪馬壹」は「邪馬臺」の誤り“とした見解に対し、李賢が『魏志』の「邪馬壹」は「邪馬臺」の誤りではなく“それはそれで正しい”としたことの意志表示である。
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