2018年8月16日木曜日

4.邪靡堆と邪摩惟

4.邪靡堆と邪摩惟

 『隋書』の成立から40年後の儀鳳元(676)年、唐高宗と則天武后の次男、章懐太子・李賢(654-684)は『後漢書』の「邪馬臺国」に「案今名邪摩惟音之訛也」と注をしている。

 

通説は、李賢注の「邪摩惟」は隋書のいう「邪靡堆」の誤りとし、さらに通説は『隋書の誤りとしたうえで、この李賢注を「案ずるに、今(唐代)の名の邪摩堆は、音の訛りなり」と読んでいる。

 

そして通説は、隋唐の時代に倭都の表記が「邪摩堆」となったのは、当時の倭国使の倭都を言う発音にそれまでの「邪馬臺」とは違う「訛り」があったからだという。

 

しかし、「訛り」とは標準語とは異なる発音のことであり、「音の訛とは同じ言葉が変化して本来の姿をかえて発音をすることである。

 

音の訛」をいう李賢注「涼州城昔匈奴故蓋臧城、後人音訛、名姑臧也」とある。

匈奴の古城の蓋臧城の名の部分の「蓋臧」を、が発り、城の名が「姑臧」に変化したということであり、蓋(ガイ)と姑(コ)は明らかに音の訛」である。

 

通説の邪摩堆(ヤマタイ)には、邪馬臺(ヤマタイ)との音の訛」はない。

 

そもそも李賢は『後漢書』の「邪馬臺国を案じているのである。

 

「今」にはここにという指事の辞の意味もある。

今名(この名)とは、案じた対象の「邪馬臺国」の名の部分の「邪馬臺」のことである。

 

李賢注邪摩惟(ヤマイ)、『隋書の邪靡堆(ヤメタイ)の字面を意識した『魏志』の邪馬壹(ヤマイ)音当てである。

 

李賢「この名(=後漢書の邪馬臺)案ずるに、邪摩惟(ヤマイ=魏志の邪馬壹)の音の訛なり読む

 

(タイ)と(イ)は全く違う「音の訛」である。

 

隋書の「邪靡堆」に倣った「邪摩惟」の字面には、魏徴の『魏志』の「邪馬壹」は邪馬臺」の誤り“とした見解に対し李賢が魏志』の「邪馬壹」は邪馬臺」の誤りではなく“それはそれで正しいとしたことの意志表示である。

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