2018年8月15日水曜日

水行と陸行

「従郡至倭、循海岸水行、歴韓乍南乍東、到其北岸狗邪韓七千。」
郡より倭に至るには、海岸循いて水行し、韓を歴するに乍ち南し乍ち東し、七千にして其の北岸の狗邪韓に到る。>

1.「文を錯(たが)うるを以って義を見(あら)わす

「従郡至倭」で始まる行程記事の第一歩、帯方郡からの「循海岸水行が朝鮮半島西海岸に沿っての航海であるということに疑いを持つ人はいない。

しかし陳寿は行程の第二歩たる半島南岸の狗邪韓国から国への航海を「始めて」度一海千里、至

帯方郡からの水行海上を行く航海であるなら、海上を行く航海に他ならない狗邪韓国からの渡海を「始めて」というのは矛盾である。

定説はこの矛盾を解消するために、水行とは海岸に沿っての沿岸であり、渡海とは海原を越えての遠洋行のことだとする。

つまり、「始めて」というのは航海が始めてということではなく、遠洋航海が始めてということだとする。

しかし、水行沿岸航海を意味するとは限らず、また、「渡海」が遠洋航海を意味するとは限らない。

流求國、居海島之中、當建安郡東、水行五日而至。(『隋書』東夷伝)
澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到。(『魏略』西戎
東シナ海の琉球国や地中海の中央にある国からは、どの方向にしようとも海原越え”の遠洋航海である。

渡海至於新羅、西北渡遼水至于營州、南渡海至于百濟、北至靺鞨。(『旧』唐書高麗伝
半島に位置する高麗から同じ半島に位置する新羅、百濟への渡海は、半島の西海岸であれ東海岸であれ“海岸に沿っての航である。


定説は矛盾を解消するための詭弁に過ぎない。

「循海岸水行が沿岸航行と解釈されるのは、「水行」の意味を上を行くことの一義でしか捉えられなかったからである。

陳寿三国志を口語体に訳した上海古籍出版社発行の『白話三国志』は、この行程記事の部分を「従帯方郡去倭国、沿着海岸航行、経過韓国一会儿向南一会儿向東、就到了倭国北岸的狗邪韓国、有七千多里、纔過了一個海再航行、一千多里、来到対海国。」としている。

中国人も「循海岸水行」を「沿着海岸航行<海岸に着き沿う航行>」と解釈しているが、狗邪韓国からの「度一海」「一個海航行」と改訂して『陳寿の矛盾』を解消している

史記に「陸行車、水行船」とあるとおり、「水行」は史書には普通に用いられる一般語であるが、陳寿はこの「水行」という一般語三国志全六十五巻中、この魏志倭人伝でしか用いていない。ちなみに「陸行」も倭人伝のみである。

日本語の「水行」は上を行くことの一義であるが、中国語の水行には水上を行くことの他に、“水の流れとか五徳終始説の水徳”とかの意味もある。

れ(『周易』:「取其水行無所不通也」
水徳(『』:「豈其天厭水行、固已人希木徳」
游水(泳ぎ)(『五代史呉越世家「水軍卒司馬福、多智而善水行

倭人伝の「水行」と「陸行」の意味は、倭人伝の文脈の中から理解するしかない。

2.「一字を以って褒貶(ほうへん)を為す

陳寿は「循海岸水行歴韓国乍南乍東」の一文に、倭人伝に用いた「水行」の真の意味をしている

説文解字』に「循、行也」とあり、「行、人之歩趨也」とあ(歩趨とは歩むことと小走りに走るということ)。

「循海岸水行」はこの「循行」から構文されており、「循行」とは“巡り歩くという意味である。

に通じ(『説文通訓定声』:「循、借為巡」)、「歴韓国乍南乍東」のを結ぶと、これも巡り歩くという意味の「巡歴」となる。

へる。経過するという意味あるが、そもそも歴は「止(あし)+音符、厂<林」の会意兼形声文字で、順序よく次々と足で歩いて通ることという意味を表した字である(『学研漢和大辞典の解字

には次々に見るという歴観の意味もあり(『漢書』師古注:「歴、謂歴観之」)、「歴韓国」とは馬韓・辰韓・弁韓の諸韓国を足で歩いて次々に見ながら経過するということである。

陳寿は「循海岸水行歴韓国乍南乍東」の一文に、倭人伝の「水行」は“歩く”という意味を隠していた。

したがうということでありしたがう(従、随、順)とは「川・道などに沿い、その進む通りに行く」ことる(『広辞苑』)

「海岸」とは文字通り海辺の岸であり、「循海岸」とは“海岸の道に沿い、その進む通りに行く”ことである。

従って、この「水行」は陸上を行くことであって、海上を行くことではない。

3.「水行十日、陸行一月」

「陸行車、水行船」のように、時として水行」と「陸行」は対置されて対句として用いられる。

「循海岸水行」の「水行」に対置すべきは「歴韓国乍南乍東」の「乍南乍東」である。

「乍南乍東」とは南へ東へを繰り返しジグザグと陸行する”ということである。

乍南乍東ジグザグと陸行する)に対置されている「水行」とは、“真っ直ぐ行くということになる。

「循海岸水行」とは、海岸線に沿った道したがって水の流れのように、その進む通りに真っ直ぐ行くということである。

魏使の一行は帯方郡治から韓国までは海岸線の道を道なりに真っ直ぐ行き、韓国内はジグザグと諸韓国を歴観しながら狗邪韓国まで来た。

魏使の一行はここで「始めて」船に乗ったのである。

説文に「水、準也」とあり、には平らかという意味もある。
「水行」は平地を行くという意味にもなり得よう。

平地を行くことに対置された場合、「陸行山地を行くことになる。

山の峰々が次々と連なる様を「陸続」という。

九州に上陸し末盧国から伊都国に東南陸行五百里」は、唐津湾の東南方向の背振山地を越えていく事なのかもしれない。

最終目的地である女王する所の邪馬壹国に投馬国からの「水行十日、陸行一月」は“平地を行けば十日、山地を行けば一月”ということである。



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