3.隋書の「壹・臺」論争
『隋書』は倭国を「俀国」と表記し、その都を「邪靡堆」とする特異な書である。
『隋書』の撰者魏徴(580-643)は、この「邪靡堆」に対し「則魏志所謂邪馬臺者也」と注釈している。
この注釈は「則ち魏志の謂う所の邪馬臺なる者なり」と読まれ、魏徴が手にしている『魏志』には「邪馬臺」とあったとされる。
『魏志』にみられる「邪馬壹」は、本来は『後漢書』と同じく「邪馬臺」とあったとする定説には、この魏徴の「証言」がなによりの根拠となっている。
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〇内藤湖南「卑弥呼考」(明治四十三年):
「邪馬壹は邪馬臺の訛なること、言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり。」
〇末松保和「太平御覧に引かれた倭国に関する魏志の文について」(昭和四年):
「臺は魏志に壹に作る。魏志の壹が臺の誤であることは、早くから、隋書に『都於邪馬堆、則魏志所謂邪馬臺者也』とあるによって知られてゐたことである。」
〇橋本増吉「東洋史上より見たる日本上古史研究」(昭和三十一年):
「壹が臺の誤りであることも、梁書、北史、翰苑にも凡べて臺とあるので、異論なきところであろう。」
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しかし、魏徴は「邪馬臺国」とする『後漢書』も手にしているのである。
魏徴が隋代の倭都の「邪靡堆」の淵源について説明しているのであれば『魏志』ではなく、時代の古い『後漢書』をもってするところだろう。
時代ではなく成立が先行する史書をもって説明しているというのであれば、簡潔に「魏志云、邪馬臺也」とでもするだけで十分である。
そうではなく魏徴が「則魏志所謂邪馬臺者也」としているのは、魏徴が手にしていた『魏志』にも「邪馬壹」とあったからである。
「則(すなわち)」には“Aデアレバ則チBデアル”という「レバ則」の意だけではなく、対待の関係を表す助詞の「は」の意もある。(諸橋大漢和辞典:【対待】タイタイ 両々向かい合って立つ。対立。)
同じ倭国の都をいうのに「邪馬壹」とする本と「邪馬臺」とする本があれば、「壹」と「臺」のどちらが正しいか論争があるのはいつの時代も変わらない。
「壹・臺」のどちらが正しいか考証(訓詁)していた魏徴は、大業四(608)年に倭国に遣わされた隋使裴世清の報告書からか、当時の倭都が邪靡堆(ヤメタイ)にあることを知った。(当時の倭都は、邪靡(ヤメ)の堆(小高い丘)にあったということか)
「所謂(いわゆる)」は「世の人に呼ばれるところの、の意」である(学研漢和大字典)。(諸橋大漢和辞典:【所謂】イハユル いうところ。普通にそう言っている。〔大学〕所謂誠其意者、母自欺也。)
「邪靡堆」は、隋唐代の倭都の表記ではない。
臺(タイ)と堆(タイ)ではかぎりなく同音に近く、当時の倭国使の倭都をいう発音が(ヤマタイ)から(ヤメタイ)に変化していたとしても、この程度の微妙な発音の違いで歴史的な倭都の表記を変更することなどあり得ない。
現に、唐代成立(636年)の『梁書』は「祁馬臺」、659年成立の『北史』は「邪馬臺」とあり、唐代の人には倭都の表記は『後漢書』の「臺」が採用されている。
「者也」は「者矣」と同じで、決定の意を示す「者である」というのに用いる。(諸橋大漢和辞典:「矣」が詞を緊張せしめるのに用いられるのに対し、「也」は慢なるに用いる。)
魏徴は「邪靡堆(ヤメタイ)」という音韻を根拠に『魏志』の邪馬壹(ヤマイ)は誤りとし、『後漢書』の邪馬臺(ヤマタイ)が正しいと決定した。
魏徴の注釈は「則ち魏志(の邪馬壹)は、いわゆる(世の人が謂う所の)、邪馬臺である」ということである。
魏徴が倭国伝で倭の字を俀(タイ)と表記したのは(煬帝紀では「倭」としている)、倭の都の表記は『後漢書』がいう「邪馬臺国」の臺(タイ)が正しいとしたことを示すためであった。
●『隋書』には他にも「則…所謂…者也」の構文がみられる。
『隋書』志第八に「則孝経所謂、移風易俗、莫善於楽者也」とある。
『孝経』は、曽子の門人が孔子の言動をしるしたという。
秦の始皇帝の焚書坑儒の煽りを受けて一時所在が不明となったが、前漢に入って2種類の系統の本が発見され、その字体から漢代通用の隷書で書かれたものを「今文孝経」と呼び、孔氏の書院の壁から得たという古文字で書かれたものを「古文孝経」と呼ばれた。
『漢書』芸文志の顔師古注に引く後漢の桓譚の新論によると、古文孝経は1872字あり、今文孝経と400字あまり異なっていた。(顔師古注:「桓譚新論云古孝経千八百七十二字、今異者四百余字」「経文皆同、唯孔氏壁中古文為異」)
両者の是非をめぐっては漢代のみならず隋代にも論争があり、唐代になってからも司馬貞や劉知機のあいだで激しい論争が交わされ、唐の玄宗が今文派と古文派の両派から討論させたが決着がつかず、玄宗みずから注釈し(「御注孝経」)両派の争いを収めようとした。
論争は一字一句をめぐって争われた。
『隋書』のいう「移風易俗、莫善於楽」は今文であり、古文には「莫善於楽」の「於」は「于」に作る。
隋代に今文の「於」と古文の「于」について、どちらが正しいか論争があった。
そして、世の人は今文の「於」を正しいとする者が多かった。
魏徴も世の人と同じく今文の「於」を正しいとし、「則ち孝経は、いわゆる(世の人の謂う所の)、移風易俗莫善於楽である」と決定した。
『隋書』王劭伝に「則抱朴子所謂、千秋萬歳者也」とある。
東晋の葛洪の『抱朴子』は「千歳之鳥万歳之禽」であるが、太平御覧に引く『抱朴子』では「千秋之鳥万歳之禽」となっていることから、原『抱朴子』でもそうであったといわれている。
当代にも「千歳」と「千秋」の、どちらが正しいかの論争があり、魏徴は「千秋」を正しいとして「則ち抱朴子は、いわゆる(世の人の謂う所の)、千秋万歳(=千秋之鳥万歳之禽)である」と決定した。
『隋書』には前述以外にも、
「則易所謂、先王作楽崇德、殷薦之上帝、以配祖考者也」
漢書志第十に「易曰」として「先王作樂崇德、殷薦之上帝、以享祖考」とある。
宋書志第九に「易曰」として「先王作樂崇德、殷薦之上帝、以配祖考」とある。
『易経』には「以配祖考」とするものと「以享祖考」の二種類の本があった。
「則詩所謂、坎坎鼓我、蹲蹲儛我者也」
『詩経』には「坎坎鼓我、蹲蹲儛我」とするものと「坎坎鼓我、蹲蹲舞我」とするものがあった。
「則周官所謂、王師大捷、則令凱歌者也」
『周礼』には「王師大捷」とするものと「王師大獻」とするものがあった。
「則考霊曜所謂、観玉儀之遊、昏明主時、乃命中星者也」
『考霊曜』には「観玉儀之遊」「観玉儀之旋」「観玉儀之游」とする三本があった。
晋書志第一に「考靈曜云」として「昏明主時、乃命中星、觀玉儀之游」とある。
太平御覧に引く考霊曜は「観玉儀之旋、昏明主時」。
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