「大作冢、径百余歩。<大いに冢(土を高く盛った墳墓)を作る、径(円形のさしわたし)、百余歩。>」
○歩の単位
長さの単位の諸度量は、人体の部位を基礎としている。(『説文解字』:「周制、寸・尺・咫・尋・常・仞、諸度量、皆以人之体為法」)
同じ長さの単位である「歩」は、歩測に用いた人の歩く歩幅を基礎としているという。
そして、その歩幅の長さは秦の始皇帝が「六尺為歩」と定めた1歩=6尺とされる。
講談社漢和辞典の度量衡換算表によると秦漢の時代の1尺は22.5㎝なので、1歩の歩幅は135㎝となる。
人の歩幅の1歩が135㎝というのは、いかに背の高い人でも長すぎる。(ゴルファーのグリーンまでのヤーデージを計る歩測の1歩は1ヤード=3feet=91.44㎝である。)
このため、古代中国では今日でいう右足(または左足)を踏み出した一跨ぎの1歩を「跬」と称し、二跨ぎの2跬を1歩としたという。(『小爾雅』:「跬、一挙足也、倍跬謂之歩」)
しかし、歩数を数えるのに2跬を1歩、4跬を2歩と換算しながら数えていくのは、たとえれば鶴の群れを数えるのに脚の本数を数えてから2で割るようなものである。
『小爾雅』は作者も作られた時代も不明、現存の『小爾雅』は魏晋時代の偽作とする説もある。
今の中国は普通に、1歩は「一跨ぎ」である。
『小爾雅』は、秦の始皇帝の「六尺為歩」の後付け解釈ではなかろうか。
秦の始皇帝が「六尺為歩」と定めた経緯について、『史記』秦始皇本紀に次のようにある。
「始皇推終始五德之傳、以為周得火德、秦代周、德從所不勝。方今水德之始、改年始、朝賀皆自十月朔。衣服旄旌節旗皆上黑。數以六為紀、符・法冠皆六寸、而輿六尺、六尺為歩、乘六馬【注記】。更名河曰德水、以為水德之始。剛毅房深、事皆決於法、刻削毋仁恩和義、然後合五德之數。於是急法、久者不赦。」
<始皇、終始五徳の伝を推し、以為(おも)へらく、『周は火徳を得たり、秦、周に代わる。徳は勝たざる所に従う。方今は水徳の始めなり』と。年始を改め、朝賀、皆、十月朔を自(もち)ふ。衣服・旄旌・節旗、皆、黒きを上(たっと)ぶ。数は六を以て紀と為す。符・法冠は、皆六寸、而して輿は六尺、六尺を歩と為し、六馬に乗る。更めて河(黄河)を名づけて徳水と曰ひ、以て水徳の始めと為す。剛毅・房深、事皆法に決し、刻削して仁恩・和義毋(な)く、然る後五徳の数に合す。是に於て法を急にし、久しきは赦さず。>
【注記】:【集解張晏曰、「水北方黑、終數六、故以六寸為符、六尺為歩」。瓉曰、「水數六、故以六為名」。譙周曰、「歩以人足為數、非獨秦制然」。索隱管子司馬法皆云六尺為歩、譙周以為歩以人足、非獨秦制。又按、禮記王制曰、「古者八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩」。歩之尺數亦不同。】
注記にある裴駰の『史記集解』にいう譙周は陳寿の学問の師である。(『晋書』陳寿伝:「陳寿字承祚、巴西安漢人也。少好学、師事同郡譙周、仕蜀為観閣令史」)
譙周は「歩以人足為數、非獨秦制然。<歩は『人足』を以て数と為す。独り秦制のみ然るに非ず。」>という。
譙周は長さの単位の「歩」は秦制の「六尺為歩」だけではないと言っているのだから、譙周が言う「人足」は人の歩幅のことではなく爪先から踵までの足底長のことである。
『史記索隱』は司馬貞の地の文で「管子司馬法皆云六尺為歩、譙周以為歩以人足、非獨秦制。<管子や司馬法も皆、「六尺為歩」だと云うのに、譙周は思うに、歩は人足(足底長)を基礎とした単位であることを理由に、独り(譙周だけは)秦制の「六尺為歩」は非であるとしたのだろう>と言っている。
秦以前の古代中国にもヤード法の「feet(footの複数形)」に相当する人足(足底長)を単位とする「歩」があった。
陳寿が倭人伝の里単位を1里=75mとしているのは、師の教えに従ってのことである。
1里は300歩であるから(『孔子家語』:「周制三百歩為里」)、1歩は75m÷300で25㎝となる。
卑弥呼の墓の「径百余歩」は、直径25mほどの円墳であろう。
〇禹歩
なぜ、足底長が「歩」の単位となったのだろうか。
『芸文類聚』帝王部一帝夏禹に引用された『帝王世紀』に「伯禹夏后氏、姒姓也、(中略)乃労身渉勤、不重径尺之璧、而愛日之寸陰、手足胼胝、故世伝禹病偏枯、足不相過、至今巫称禹歩是也。<伯禹夏后氏、姒姓なり。(中略)乃ち身を労して渉勤す。径尺の璧を重しとせずして、日の寸陰を愛み、手足胼胝(べんち)す。故(ふる)き世に禹、偏枯を病み、足相(たが)い過らずと伝う。今に至りて巫の禹歩を称するは是れなり。>」とある。
古代中国の治水の帝王である夏王朝の祖・禹は長年にわたり全国の河川の流れを記録するために地形や海抜を測量したために、手足に胼胝(タコ)ができ偏枯(半身不随)になり「足不相過」になったという。
この“足が互いに過ぎない”という歩幅のない歩き方を道教の巫が「禹歩」と称していた。
東晋の葛洪の著した『抱朴子』仙薬篇に「禹歩」の歩き方(ステップ)について「禹歩法、前挙左、右過左、左就右、次挙右、左過右、右就左、次挙左、右過左、左就右、如此三歩、当満二丈一尺、後有九跡。<禹歩の法、前(さき)に左を挙げ、右左を過り、左右に就く。次に右を挙げ、左右を過り、右左に就く。次に左を挙げ、右左を過り、左右に就く。此の如く三歩せば、満二丈一尺に当たり、後に九跡有り。>」とある。
「左就右」は左足の爪先に右足の踵を就けるということ、「右就左」は右足の爪先に左足の踵を就けるということである。
この歩幅のないステップを「禹歩」と称すのは、元来、禹が左右の足の爪先と踵を交互に接触させながら距離を計る測量のための歩測の仕方だったのではなかろうか。
禹が左右の足の爪先と踵を交互に接触させながら距離を測る様が、小股でひょこひょこ歩く偏枯(半身不随)のように見えたのであろう。
人足(足底長)を基礎とした単位を「歩」と称するのは、禹が距離を測る「歩測」に用いたからであろう。
(余談)
張家山漢簡『引書』に「禹歩すれば以て股間を利す」とある。
纏足された女性が踵と爪先を接するように、小股でひょこひょこ歩く様を「禹歩」と呼ぶ。
「禹歩」は女性のは股間にいい効果をもたらしたのだろうか。
○「歩」と「尺」の換算表
周の時代の尺には「咫」と呼ばれる8寸の小尺と10寸の大尺があったという。(『説文』:「咫、中婦人手長八寸、謂之咫、从尺只聲」「尺、 十寸也。人手卻十分動脈爲寸口。十寸爲尺」)
しかし、一つの時代、社会に長さの違う二つの「尺」があったら混乱を招いてしまうだろう。
元来、10分を1寸、10寸を1尺、10尺を1丈とする丈尺の系統と、6尺を1歩、300歩を1里とする歩里の系統は独立した別系統の単位である。
「尺十寸也」の寸の単位となった<人の手の10分(1寸)を卻(しりぞ)くところの動脈を寸口となす>とある「寸口」とは、脈を計るときの“手首の脈どころ”のことである。
脈は親指の第一関節の“腹”で計るのだから、“手首の脈どころ”は親指の第一関節の長さである。
誰もが親指の第一関節の長さは2~3㎝であろうから、中を採っても大尺は24~25㎝となる。
『説文』に「咫」は中婦人(普通の女性)の「手長」が単位とあるが、普通の女性の親指と薬指を広げた幅の長さは20㎝前後である。
実は、周の大尺が足底長を単位とした「歩」で、小尺(咫)が周の「尺」ではなかろうか。
長さの単位には歩と尺の二系統が存在したのであるから、二系統間に「換算表」が存在するのは必然である。
仮に、周の小尺(咫)の20㎝を「尺」とし、周の大尺の24㎝を「歩」として、その換算比率をみると6尺=5歩となる。
周の時代には、尺と歩の換算率は6尺=5歩であった。
紀元前222年、中国全土を統一した秦の始皇帝は終始五徳説の水徳の数の六を尊ぶ水行をおこなった。(史記秦始皇本紀:「数以六為紀、符・法冠皆六寸、而輿六尺、六尺為歩、乗六馬」)
始皇帝の度量衡の統一を記した「権量銘」に「廿六年、皇帝盡并兼天下、諸侯黔首大安、立號爲皇帝。乃詔丞相状綰、法度量則、不壹歉疑者、皆明壹之。」とある。
<(始皇帝の)二十六年、皇帝は尽(ことごと)く天下を并兼(へいけん)し、諸侯や黔首(けんしゅ)は大いに安らかとなり、号を立てて「皇帝」と称した。そこで丞相の隗状(かいじょう)と王綰(おうわん)に詔し、法度量の則(決まりごと)が『一』ではなく歉疑(けんぎ)なるものは、みな明らかにしてこれを『一』にさせた。>
始皇帝の換算比率(六尺為歩)は、周制の換算比率(6尺=5歩)を、六を尊ぶ水徳によって「6尺=1歩」としたのだろう。
このため、秦制の歩の単位は周制の5倍となった。
周の時代の五十里塚は、秦の時代にそのまま十里塚として使えば良い。