2018年8月30日木曜日

11.一大国と瀚海


 

又、南渡一海千里、名曰瀚海、至一大国。」

<また、南に一海を渡ること千余里にして、名を瀚海という、一大国に至る。>

 

陳寿は渡海三海峡のうち、対海国(対馬)と一大国(壱岐)との間の海峡(対馬海峡東水道)だけを「瀚海」と名付けている

 

史記』匈奴漢驃騎軍之出代二千里、左賢王接、漢兵得胡首虜凡七万余級、左賢王皆遁走。驃騎封於狼居胥山、姑衍、臨翰海而還。」に注をした、張守節になる『史記正義』に「按、翰海自一大海名、羣鳥解羽、伏乳於此、因名也。」とある。

 

張守節は、翰海(瀚海)は「一大海」より名づけられたいう

 

後漢の許慎になる中国最古の字書『説文解字』に「翰、天雞也、赤羽、从羽倝聲」とあり、「翰」は天雞(中国神話中の天の鶏)とある。

 

その『説文解字』に天、顛也、至高無上、从一大」とあり、「一大」は天の異称、一・大の二字を合すると天の字になるからいう(諸橋大漢和辞典』)。

 

『前漢書王莽伝に「尋手理有天子字、莽解其臂入視之、曰一大子也」とあり、「天子」は「一大子」とも書かれる。

 

「一大国」「天国」でもある。

 

壱岐をいう「一大」は、倭国で「天国」と漢字表記していたのを、陳寿はそのまま「天」とするに憚ることでもあったのか、分解して「一・大」としたのではなかろうか。

 

陳寿は「一大」の表記が間違いではないことを示すために、一大国へ渡る海峡に「瀚海」と名付けておいたのではなかろうか

 

天降る

 

記紀神話の「天降る」とは、天国から天国以外の土地へ赴くことをいい、天降る先は筑紫出雲新羅(曽尸茂梨)の三所である。

 

これら三所の中心に位置する対馬の小船越には「阿麻留神社」がある。阿麻は「天照」である。壱岐の勝本町には「天原」というバス停がある。高天原である。

 

天孫降臨は「高天原から筑紫への天降り」であり、壱岐の海士勢力の筑紫へ侵入である。

 

末盧国には「魚鰒(アワビ)をるのを、水浅と、皆沈没してる」という「水人」と呼ばれる人がいる。

 

今、潜水漁をする海人・海士・海女を「あま」と読むのは、筑紫へ侵入した勢力が天(あま)と呼ばれていたからはなかろうか。

 

(余談)

 

『神皇正統記』北畠親房は、古事記に見られる「伊邪那岐」の名仏教用語の伊舎那天」の「天」「岐」に転じたものだという。

2018年8月26日日曜日

10.楽浪郡と帯方郡


『前漢書』地理志:「樂浪海中有倭人、分爲百餘國。」

『魏志』倭人伝:「倭人在帶方東南大海之中、依山嶋爲國邑。」

 

〇楽浪郡

 

楽浪郡は漢の武帝が元封三(BC108)年、遼東から朝鮮半島北部支配していた衛氏朝鮮を滅ぼし、その地に郡県制をしいて玄莵郡、臨屯郡、真番郡とともに置かれた。(前漢書武帝紀:「(元封三年夏、朝鮮斬其王右渠降以其地為樂浪・臨屯・玄菟・真番郡。」)

 

『前漢書』地理志:《細字注》

樂浪郡武帝元封三年開。莽曰樂鮮。屬幽州》。戸六萬二千八百一十二、口四十萬六千七百四十八。有雲鄣》。縣二十五朝鮮[言冄] 浿水西至増地入海。莽曰樂鮮亭》、含資帶水西至帶方入海遂成増地莽曰》、帶方駟望海冥莽曰海桓》、列口長岑屯有昭明南部都尉治》、鏤方提奚渾彌呑列分黎山、列水所出西至黏蝉入海行八百二十里》、不而東部都尉治》、蠶台華麗邪頭昧前莫夫租。」

 

今、楽浪郡治をピョンヤンの郊外、市街地とは大同江を挟んだ対岸にある楽浪土城とするに異論はみられない。

 

楽浪土城が楽浪郡治とされるのは、そこから官印「楽浪太守章」の封泥が大量に発掘されたからである。

 

封泥とは、古代中国で重要物品を入れた容器や公的内容を記した木簡竹簡の束を送った時に、その荷物を紐で縛りその結び目に粘土を置き、その上から発信者の印を押して封緘するとともに、責任の所在を示す証明として用いられた粘土の塊のこと。

 

封泥は発送地で押され到着地で開封後捨てられるものであるから、「楽浪太守章」の封泥が大量に発掘されたということは、そこは楽浪郡ではないと考えるのが至当であ

 

対馬の三根遺跡や壱岐の原ノ辻遺跡や九州北部の遺跡から、半島との通交の証である楽浪土器が出土する。

 

楽浪土器と呼ばれるのは、これが楽浪郡に比定される楽浪土城から出土するからである。

 

日本出土の楽浪土器は半島出土のそれよりも器形や胎土・焼成などが洗練されていることから、通常の生活用土器として持ち込んだものではなく、朝貢に対する返礼品として下賜された選ばれた土器との見方もある。

 

楽浪土器は帯方太守によって持ち込まれた卑弥呼への下賜品ではなかろうか。

 

後漢書光武帝紀に「楽浪郡故朝鮮在遼東」とあり、楽浪郡は朝鮮国すなわち衛氏朝鮮で、その地は朝鮮半島ではなく遼東半島にあった。

 

後漢書余伝に「安帝永初五年夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪殺傷吏民後復歸附。安帝の永初(111)年、夫余王は歩騎78千人をいて楽浪郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、後、復た帰附した。>」とある。

 

満州北方にいた夫余がピョンヤンを攻めるのは不可解であり、楽浪郡は遼東にあったと考えるしかない。

 

『魏志』濊伝に「単単大山領以西属楽浪、自領以東七、都尉主之。<単単大山嶺より以西は楽に属す嶺より以東七県は都尉す。>」とある。

 

単単大山は長白山。長白山は中国吉林省・延辺朝鮮自治州と朝鮮民主主義人民共和国の両江道にまたがる休火山。 山頂付近に白い浮石が多い為、韓国、北朝鮮、中国の朝鮮族などでは白頭山と呼ばれ朝鮮民族の聖山となっている。

 

楽浪郡は長白山以東の七県を分かち楽浪東部都尉を置いて、楽浪郡は長白山以西の長白山一帯地方に遼東半島支配の拠点とした。

 

清朝末期の学者・張鳳台の撰になる『長白叢書』に、次のようにある。

 

「漢武帝元封三年滅朝鮮、分置楽浪・玄莵・臨屯・真番四郡、即在今奉省南蓋平・海城・復州等処。至昭帝始元五年、詔罷臨屯・真番、以併楽浪・玄莵。玄莵復徙属句麗。自単々大嶺以東:単々、満語珊延、音相近、即長白山:悉属楽浪、故楽浪地勢最為廣袤。旋復分嶺東七縣、置楽浪東部都尉。以其時其地考之、自今之海:蓋以東至長白山一帯地方:均属楽浪郡。漢時楽浪在奉天省城東北二千餘里、府治距奉天不過一千五百里、其為漢時楽浪郡無疑。

 

<漢の武帝の元封三(BC108)年朝鮮を滅し、分かちて楽浪・玄莵・臨屯・真番の四郡を置く。即ち今の奉省南蓋平・海城・復州等処に在り。昭帝の始元五(BC82)年に至り、詔(みことのり)し臨屯・真番を罷(や)め、以って楽浪・玄莵に併す。玄莵また徙(うつ)りて句麗に属す。単々大嶺より以東、(単々は満語の珊延に音近し、即ち長白山なり)、悉く楽浪に属す。故に、楽浪の地勢最も広袤(こうぼう)たり。旋(めぐ)りて復た、嶺東七県を分かち、楽浪東部都尉を置く。その時その地を以てこれを考えうるに、自今の海、(蓋し、以東、長白山一帯地方に至るまで)、均しく楽浪郡に属す。漢時の楽浪は、奉天省城の東北二千余里に在り。府治は奉天を距(へだ)つこと千五百里に過ぎず。それ漢時の楽浪郡たること疑いなし。

 

奉天は、今の遼寧省瀋陽市。

 

〇帯方郡

 

魏志韓伝に建安中、公孫康分屯有以南荒地方郡、遣公孫模張敞等、收集遺民、興兵伐韓民稍出、是後韓遂属帯。」とあり、帯方郡は後漢の建安中(196-220)、遼東を支配していた公孫康によって楽浪郡屯有県以南の帶方列口南新長岑提奚含資海冥の七県を分けて設置された

 

1912年、ピョンヤンの南およそ60kmの大同江に程近い黄海道鳳山郡沙里院で「使君帯方太守張撫夷塼」と刻まれた煉瓦で作られた塼槨墓が発見され、この帯方太守張撫夷墓のある沙里院の南西約4㎞の黄海道鳳山郡智塔里の唐土城(智塔里土城)を帯方郡治址とする説もあった。

 

しかし、智塔里土城を帯方郡治とすると楽浪郡治とされる楽浪土城とは近すぎるということから、『前漢書』地理志・楽浪郡の細字注に「帯水西至帯方入海。<帯水、西して帯方に至って海に入る。>」とある帯水を漢江に当て、帯方郡治は漢江河口部のソウルの南の風納里土城とされる。

 

帯方郡を設置した公孫の父、公孫度黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立し、遼東王を自称した人物である。

 

遼東の盟主公孫とってはるか南方のソウル地方の運営に興味があったというのも妙な話である。

 

後漢書高句麗伝「郡國志西安平帶方縣並屬遼東郡。郡国志では西安平、帶方県は遼東郡に属す。とある。

 

魏志高句麗伝に桓之間復犯遼東寇新安又攻西安平于道上殺帶方令略得樂浪太守妻子。」とあり、後漢・順帝の陽嘉元(132)、遼東半島に侵攻してきた高句麗軍西安平県現在の遼寧省丹東市付近帯方県令を殺害し楽浪太守の妻子を捕らえており、帯方県がソウル付近ではないことが窺い知れる。

 

帯方郡から狗邪韓国(釜山に比定)までの里程は七千里である。

 

陳寿は師の周の教えに従って、倭人伝の里単位を1里=75mとしている。

 

ソウル~釜山は直線距離で約320km

320㎞÷7000里=45.7m

 

ピョンヤン~釜山は直線距離で約520km

520km÷7000里=74.3m

 

今、楽浪郡治とされる楽浪土城が帯方郡治ではなかろうか。

2018年8月24日金曜日

9.卑弥呼の墓の「径百余歩」

大作冢、。<いに(土を高く盛った墳墓)を(円形のさしわたし)。>」

 

○歩の単位

 

長さの単位の諸度量は、人体の部位を基礎としている。(『説文解字』:「周制、寸・尺・咫・尋・常・仞、諸度量、皆以人之為法」

 

同じ長さの単位である「歩」は、歩測に用いた人の歩く歩幅を基礎としているという。

そして、その歩幅の長さは秦の始皇帝が「六尺為歩」と定めた1歩=6尺とされる。

 

講談社漢和辞典の度量衡換算表によると秦漢の時代の1尺は22.5㎝なので、1歩の歩幅は135㎝となる。

 

人の歩幅の1歩が135㎝というのは、いかに背の高い人でも長すぎる。(ゴルファーのグリーンまでのヤーデージを計る歩測の1歩は1ヤード=3feet=91.44㎝である。)

 

このため、古代中国では今日でいう右足(または左足)を踏み出した一跨ぎの1歩をと称し、跨ぎの2跬を1歩としたという。(小爾雅』:「跬、一足也、倍跬謂之歩」)

 

しかし、歩数を数えるのに2跬を1歩、4跬を2歩と換算しながら数えていくのは、たとえれば鶴の群れを数えるのに脚の本数を数えてから2で割るようなものである

 

小爾雅作者も作られた時代も不明現存の小爾雅』は魏晋時代の偽作とする説ある

 

の中国は普通に、1歩は「一跨ぎ」である

小爾雅、秦の始皇帝の「六尺為歩」の後付け解釈ではなかろうか。

 

秦の始皇帝が「六尺為歩」と定めた経緯について、『史記秦始皇本紀に次のようにある。

 

始皇推終始五德之傳、以為周得火德、秦代周、德從所不勝。方今水德之始、改年始、朝賀皆自十月朔。衣服旄旌節旗皆上黑。數以六為紀、符法冠皆六寸、而輿六尺、六尺為歩、乘六馬【注記】。更名河曰德水、以為水德之始。剛毅房深、事皆決於法、刻削毋仁恩和義、然後合五德之數。於是急法、久者不赦。

 

<始皇、終始五徳の伝を推し、以為(おも)へらく、『周は火徳を得たり、秦、周に代わる。徳は勝たざる所に従う。方今は水徳の始めなり』と。年始を改め、朝賀、皆、十月朔を自(もち)ふ。衣服・旄旌・節旗、皆、黒きを上(たっと)ぶ。数は六を以て紀と為す。符・法冠は、皆六寸、而して輿は六尺、六尺を歩と為し、六馬に乗る。更めて河(黄河)を名づけて徳水と曰ひ、以て水徳の始めと為す。剛毅・房深、事皆法に決し、刻削して仁恩・和義毋(な)く、然る後五徳の数に合す。是に於て法を急にし、久しきは赦さず。>

 

【注記】:【集解張晏曰「水北方黑、終數六、故以六寸為符、六尺為歩」。瓉「水數六、故以六為名」。譙周曰「歩以人足為數、非獨秦制然」索隱管子司馬法皆云六尺為歩、周以為歩以人足、非獨秦制。又按、禮記王制曰「古者八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩」歩之尺數亦不同。

 

注記にある裴駰の『史記集解』にいう譙は陳寿の学問の師である。(『晋寿伝:「陳寿字承祚、巴西安漢人也。少好、師事同郡周、仕蜀為閣令史」

 

は「歩以人足為數、非獨秦制然。歩は『人足』を以て数と為す。独り秦制のみ然るに非ず。」いう。

 

は長さの単位の「歩」は秦制「六尺為歩」だけではない言っているのだから、譙が言う「人足」は人の歩幅のことではなく爪先から踵までののことである。

 

『史記索隱』は司馬貞の地の文で「管子司馬法皆云六尺為歩、周以為歩以人足、非獨秦制。管子や司馬法も皆、「六尺為歩」だと云うのに、周は思うに、歩は人足(足長)を基礎とした単位であることを理由に、独り(周だけは)秦制の「六尺為歩」は非であるとしたのだろう>言っている。

 

秦以前の古代中国にヤード法の「feetfootの複数形)」に相当する人足(長)を単位とする「歩」があった。

 

陳寿が倭人伝の里単位を1里=75mとしているのは、師の教えに従ってのことである。

 

1里は300歩であるから(『孔子家語』:「周制三百歩為里」)、1歩は75m÷30025㎝となる。

 

卑弥呼の墓の「径百余歩直径25ほどの円墳であろう

〇禹歩

 

なぜ、足底長が「歩」の単位となったのだろうか。

 

『芸文類聚』帝王部一帝夏禹に引用された『帝王世紀』に「伯禹夏后氏、姒姓也、(中略)乃労身渉勤、不重径尺之璧、而愛日之寸陰、手足胼胝、故世伝禹病偏枯、足不相過、至今巫称禹歩是也。<伯禹夏后氏、姒姓なり。(中略)乃ち身を労して渉勤す。径尺の璧を重しとせずして、日の寸陰を愛み、手足胼胝(べんち)す。故(ふる)き世に禹、偏枯を病み、足相(たが)い過らずと伝う。今に至りて巫の禹歩を称するは是れなり。>」とある。

 

古代中国の治水の帝王である夏王朝の祖・禹は長年にわたり全国の河川の流れを記録するために地形や海抜を測量したために、手足に胼胝(タコ)ができ偏枯(半身不随)になり「足不相過」になったという

 

この“足が互いに過ぎない”という歩幅のない歩き方を道教の巫が「禹歩」と称していた。

 

東晋葛洪の著した抱朴子仙薬篇「禹歩」の歩き方(ステップ)について禹歩法、前挙左、右過左、左就右、次挙右、左過右、右就左、次挙左、右過左、左就右、如此三歩、当満二丈一尺、後有九跡。<禹歩の法、前(さき)に左を挙げ、右左を過り、左右に就く。次に右を挙げ、左右を過り、右左に就く。次に左を挙げ、右左を過り、左右に就く。此の如く三歩せば、満二丈一尺に当たり、後に九跡有り。>」とある。

左就右」は左足の爪先に右足のを就けるということ右就左」は足の爪先に左足のを就けるということである。

この歩幅のないステップを禹歩」と称すのは、元来、禹左右の足の爪先と踵を交互に接触させながら距離を計る測量のための歩測の仕方だったのではなかろうか。

左右の足の爪先と踵を交互に接触させながら距離を測る様が、小股でひょこひょこ歩く偏枯(半身不随)のように見えたのであろう。

人足()を基礎とした単位を「歩」と称するのは、距離を測る「歩測」に用いたからであろう。

(余談)

張家山漢簡『引書』に「禹歩すれば以て股間を利す」とある。

纏足された女性が踵と爪先を接するように、小股でひょこひょこ歩く様を「禹歩」と呼ぶ。

 

「禹歩」は女性のは股間にいい効果をもたらしたのだろうか。

 

○「歩」と「尺」の換算表

 

周の時代の尺には「」と呼ばれる8寸の小尺と10寸の大尺があったという。(『説文』:「、中婦人手長八寸、謂之咫、从尺只聲」「 十寸也。人手卻十分動脈爲寸口。十寸爲

 

しかし、一つの時代、社会に長さの違う二つの「尺」があったら混乱を招いてしまうだろう。

 

元来、10分を1寸、10寸を1尺、10尺を1丈とする丈尺の系統と6尺を1歩、300歩を1里とする歩里の系統は独立した別系統の単位である

 

「尺十寸也」の寸の単位となった<人の手の10分(1寸)を(しりぞ)くところの動脈寸口となす>とある「寸口」とは、脈を計るときの“手首の脈どころ”のことである。

 

脈は親指の第一関節の“腹”で計るのだから、“手首の脈どころ”は親指の第一関節の長さである。

 

誰もが親指の第一関節の長さは23㎝であろうから、中を採っても大尺は2425㎝となる。

 

説文』に「」は中婦人(普通の女性)の「手長」が単位とあるが、普通の女性の親指と薬指を広げた幅の長さは20㎝前後である。

 

実は、周の大尺が足底長を単位とした「歩」で、小尺()が周の「尺」ではなかろうか。

 

長さの単位には歩と尺の二系統が存在したのであるから、二系統間に「換算表」が存在するのは必然である。

 

仮に、周の小尺()の20㎝を「尺」とし、周の大尺の24㎝を「歩」として、その換算比率をみると6尺5歩となる。

 

周の時代には、尺と歩の換算率は6尺=5歩であった。

 

紀元前222年、中国全土を統一した秦の始皇帝終始五徳説の水徳の数の六を尊ぶ水行をおこなった。(史記秦始皇本紀:「数以六為紀、符法冠皆六寸、而輿六尺、六尺為歩、六馬)

 

始皇帝の度量衡の統一を記した「権量銘」に「廿六年、皇帝盡并兼天下、諸侯黔首大安、立號爲皇帝。乃詔丞相状綰、法度量則、不壹歉疑者、皆明壹之。」とある。

 

<(始皇帝の)二十六年、皇帝は尽(ことごと)く天下を并兼(へいけん)し、諸侯や黔首(けんしゅ)は大いに安らかとなり、号を立てて「皇帝」と称した。そこで丞相の隗状(かいじょう)と王綰(おうわん)に詔し、法度量の則(決まりごと)が『一』ではなく歉疑(けんぎ)なるものは、みな明らかにしてこれを『一』にさせた。>

 

始皇帝の換算比率(六尺為歩)は、周制の換算比率(6尺=5歩)を、六を尊ぶ水徳によって「6尺=1歩」としたのだろう。

 

このため、秦制の歩の単位は周制の5倍となった。

 

周の時代の五十里塚は、秦の時代にそのまま十里塚として使えば良い。