2018年8月14日火曜日

魏志倭人伝

『魏志倭人伝』とは、3世紀の古代中国が魏(220-265)、蜀(221-263)、呉(222-280)の三国に鼎立し覇権を争った歴史を、三国を統一した西晋(265-316)の史官・陳寿(233-297)の撰した歴史書、魏書30巻・蜀書15巻・呉書20巻の全65巻からなる『三国志』魏書巻三十・烏丸鮮卑東夷伝のうちの古代日本に関する倭人の条の通称。

魏志倭人伝にはいわゆる邪馬台国(三国志では「邪馬壹国」)や邪馬台国の女王・卑弥呼の魏の景初(238)朝献から正始八(247)の卑弥呼の後継女王・壹與の朝貢までの魏との通交が記録されており、3世紀古代日本をうかがい知るうえでの唯一の同時代史料である。

三国志の成立時期については、東晋(317-420)の常據の華陽国志(355年成立)に「呉平後、陳寿は、すなわち三国の史を鳩合(あつ)めて魏・呉・蜀の三書六十五篇を著し、三国志と号づく」とある。

三国志の年度の確認できる最後は、妃嬪伝に晋の太康五(284)年に没した呉の最後の皇帝の孫晧の没後の記事があることから、呉平後(呉の滅亡は280年)も晋の太康年間(280-289)の半ば、陳寿523歳頃のこととみられる。

当時、魏の名将であった夏侯堪(243-291)も同じく「魏書」を書きあげていたが、「寿の作るところを見れば、すなわち己の著を壊して(引き破り)罷む(それきり筆を折ってしまった)」(『晋書』陳寿伝)と述懐したと云われるほどに、その出来栄えは追随を許さぬ名著であった。

三国志「魏書」が「魏志」と呼ばれるのは、他にも晋の泰始元年(265)には成立していたといわれる晋の王沈(?-266)の魏書や、後の南北朝時代の北魏の史書も魏書(554年成立、北斉の魏収撰)といい、これら『王沈魏書』や『北魏書』との混同を避けるため。

●魏略

陳寿と同時代に魚豢生卒年不詳)による『魏略』があった。(『唐書』藝文志:「魚豢、魏略、五十巻」)

魏略は、原本は残っておらず逸文によってのみ知れる。

『前漢書』地理志燕地の条の「楽浪海中有倭人、分余国、以歳時来献見云」に、唐の顔師古が「魏略云、倭在方東南大海中。依山島為国。度海千里、復有、皆倭種」と注をしている。

日本の太宰府天満宮にのみ残る唐の張楚金になる『翰苑には、魏略倭伝の長文の逸文が見られる。

翰苑』所引『魏略逸文帯方至倭、循海岸水行、、到、七十里。始度一海千里、至対馬国、其大官曰卑拘、副曰卑奴、無良田、南北糴。南度海、至一支。置官、与同。地方三百里。又渡海千里、至末盧。人善捕魚、能浮水取之。東南五里、到伊都。戸万、置曰爾支、副曰洩渓觚柄渠觚。其国王皆王女也。女王之南、又有狗奴、女男子王、其官曰拘右智卑狗、不王女也。自帯方至女二千里。其俗男子皆點而文、聞其語、自謂太伯之後。昔夏后少康之子封於稽、髮文身以避蛟龍之。今イ妾人亦文身、以厭水害也。

唐の段公路になる『北戸録』には「倭国大事輒灼骨以卜。先如中州令亀、視占吉凶也」と引かれている。

清の張鵬一が逸文を集めた『魏略輯本』には、倭国に関するものは「倭南有侏儒、其人長三四尺、去女王国四千里」のみである。

魏志倭人伝の文章が魏略と酷似していることから、陳寿は先行する魏略を参考にしたとみられている。

唐の劉知幾『史通』に「魏時京兆魚豢私撰魏略。事止明帝。」とあるが、魏略には晋の文(司馬昭)についての記述があり、魏略の成立も三国志と同じ晋の太康年間(280-289)とみる説もある。(伊藤徳男「魏略の製作年代について」:『歴史学研究』第四巻第一号、昭和十年五月)

『魏略』倭伝と『魏志』倭人伝は同じ親から産まれた「兄弟」なのかもしれない。

○裴注

 

陳寿自筆本は今日残っていない。

 

今に残る『三国志』は裴松之(372-451)が注をつけた「裴注」と呼ばれるもので、南宋の紹興年間(1131-62)に刊行された紹興本(蜀志・呉志を欠き、魏志三十巻だけ)、同じく紹煕年間(1190-94)に刊行された紹煕本(魏志一~三巻を欠く。宮内庁書陵部所蔵)がある。

 

紹煕本は北宋第三代真宗の咸平五(1002)年刊行の奉勅刊本(咸平本)の重刻本で、倭人条に「倭人伝」と見出しが書かれているが、紹興本にはそのような見出しはない。

 

『三国志』は正史にはつきものの表・書はなく、志の叙述も簡潔だった。このため、南朝劉宋の文帝の「陳寿の三国志は良史だが、欠落が多いので、これを補う」との勅命により、裴松之(372-451)陳寿の使わなかった史料も含め203種の古史、覇史、別伝、家伝の類を引き、単なる字句解釈のではなく、本文の補完に近い詳細な注をつけ正史の体裁を整えた。

 

裴松之は魏志倭人伝に『魏略』から一条、【魏略曰、其俗、不知正歳四節、但、計春耕秋收年紀】と注をつけている。

 

『宋書』裴松之伝:

「上使注陳壽三國志、松之鳩集傳記、增廣異聞、既成奏上。上善之曰、此為不朽矣。」

上(文帝)陳寿が三志を注せしめ、松之記を鳩集し、異聞を増広す。既に成りて奏上す。上、之を善して曰く、『これは不朽となるだろう』>

 

裴松之が『三国志』に注を入れて上表したのが、元嘉六(429)年七月二十四日。(『上三國志注表』:「元嘉六年七月二十四日、中書侍郞西鄕侯臣裴松之上」

 

倭の都を「邪馬臺国」とする范曄(398-445)が『後漢書』を撰したの、裴注の三年後元嘉九(432)年のこと。

 

後漢書が魏志倭人伝を参考にしているのは明らかであり、このため范曄がみていた三国志には「邪馬臺国」とあったとするのが定説である。

 

しかし、国名表記に紹煕本が大海国・一大国、紹興本が対馬国・一支国とするなどの違いはあるが、邪馬壹国」は同じである。

 

史書の刊本を作成するにあたっては極めて厳しい校讐(二人が相対して、原本と比較照合して文章や字句誤りを正すこと)が行われるのであり紹煕本紹興本も、どちらも偶然に誤写誤刻したとは考えずらい

 

裴松之が見ている三国志に「邪馬臺」とする本があったなら、呉志薛綜傳注に「臣松之見諸書本、苟身或作句身、以為既云橫目、則宜曰句身」とあるように、裴松之は「臣松之見諸書本、邪馬臺或作邪馬壹」のような注をしていただろう。

 

裴松之は倭人伝にみえる「絳地交龍錦」の絳の字について【臣松之以爲地應爲。漢文帝著衣謂之戈是也。此字不體、非魏朝之失、則傳冩者誤也】と注をしており、三国志の「絳」は「綈」の誤りだと考証しても文字そのものは訂正していない。

 

裴松之は武帝紀に、後世の歴史家が勝手に三国志の文章を書き換えているのを批判している。

 

三國志魏書/武帝操

臣松之以為、史之記言、既多潤色故前載所述、有非實者矣後之作者又生意改之、于失實也、不亦彌遠乎。凡孫盛製書、多用左氏以易舊文、如此者非一。嗟乎、後之學者將何取信哉。」

 

<臣裴松之は以為らく(考える)史(歴史家)の記言(言葉を記す)、既に多く潤色す。故に前載(先行の書物)の述べるところ、実(事実)に非ざる有る者矣(あり)。後の作者、また、生意(かってな考え)にして之れを改す真実を失うという点で、ますます距離があくというものではないか。およそ孫盛は書物を作るとき、左氏伝を用いてもとの文章をかえる場合が多く、そのようなことは一つに止まらない。ああ、後の学者はいったい真実をどうしてつかんだらよいのだ。>」

 

大海国対馬国、一大国一支国の書き換えはあり得ても、逆は考えづらい。

 

○正史

 

三国志は、もともと私撰の書。

 

陳寿はもと蜀の人であったが、父親の喪中の対応が悪いとして蜀を追放され、流れ着いた晋で張華(232-300)の目にとまり晋の編史官として登用された。

 

張華は晋の初代皇帝文帝(司馬昭)、武帝(司馬炎)、恵帝(司馬衷)と続く司馬一族に終生仕えた有能な官吏であった。

 

晋の史官となった陳寿は、晋朝の正当性(魏からの禅譲)を主張するため、三国のうち魏を正統の王朝として魏志にのみ本紀(帝紀)があり、蜀の劉備を先主伝、呉の孫権を呉主伝と列伝に立てている。

 

陳寿の死後、尚書郎の范頵らは「臣ら案ずるに、もと治書侍御史の陳寿は三国志を作り、辞は勧誡(善を勧め悪を誡める)が多く、得失を明かにし、風化(道徳で人を感化する)益する有り、文の艶かは司馬相如に若かずと雖も、而して質直(正直)はこれに過ぐ」(『晋書』陳寿伝)と、恵帝に上表した。

 

恵帝は陳寿三国志を写本するように河南の尹(長)に詔を下し、恵帝の勅命により「洛陽の令は家に就きてその書を写す」(『晋書』陳寿伝)、写本を宮中に収めることになって正史の地位を得た

 

正史とは中国歴代王朝が正当と認め、皇帝が批准した史書をいう。

 

史書は代々王朝の変わるごとに次の王朝が、王朝継承の正当性(禅譲)を主張するために前王朝の記録を参考に作られる。

 

史書には『史記』『漢書』のように皇帝の業績を編年体に記す本紀(帝紀)と人臣の事績や諸外国の地誌・民俗を伝える列伝からなる紀伝体と、『春秋』『資治通鑑』のような編年体、『通鑑紀事本末』『左伝紀事本末』のように記事本末体の型式がある。

 

正史の基本形は紀・伝に、その時代の文化・法制・経済・人文地理・天文などの記録の志と、これに系図・年表からなる表、制度・音楽・兵法・暦・天文・治水土木技術・貨幣を主とする経済史などの書が加わる。

 

「正史」という言葉は『隋書』経籍志に初めて登場するが、この時の意味は史記以前の編年体の史書を古史というのに対して使われ、単に紀伝体で書かれた史書を指していた。

 

『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』の前四史と488年成立の『宋書』までは個人が書いていたものを後に王朝が正史に認定した。

 

唐の貞観二十(646)年、時の太宗皇帝は個人が史書を書くことを禁止し、重臣の房玄齢(578-648) を作業主任としてその下に多数の歴史官を調査・考証に従事させ、『晋書』の定本をつくるよう命じた。

 

『晋書』以降は王朝で多数の学者を集めて国家事業的な編纂事業ともなった。

 

その後、宋の時代に紀伝体の史書をふるいに掛けて皇帝の批准を経た『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』『宋書』『南斉書』『梁書』『陳書』『魏書』『北斉書』『周書』『隋書』『南史』『北史』『新唐書』『新五代史び十七史とした。ここに現在の意味での「正史」が誕生したのである。

 

清朝・乾隆帝の『欽定四庫全書』の編纂時に十七史に『旧唐書』『旧五代史』『宋史』『遼史』『金史』『元史』『明史』を加え二十四史とし、皇帝の批准を経ないものを正史と呼ぶことが禁じられた。今は新元史』『清史稿』をいれて二十史)

 


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