(正始八年条)
①其八年、太守王頎到官。
②倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼、素不和。
③遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃状。
④遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。
⑤卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
⑥更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
⑦復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。
⑧政等以檄告喩壹與。
⑨壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還。
⑩因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。
〇王頎の「着任」
「到官」の官を官衙(郡治)として、これを正始八(247)年に王頎が帯方太守として“郡治に着任した”と解する向きもあるが、玄菟太守だった王頎が帯方太守に転任したのは前任の弓遵が戦死した正始七(246)年のことである。
王頎の帯方郡治の“着任”が一年後の正始八(247)年というのは、公孫氏滅亡後の半島情勢を鑑みると如何にもノンビリ過ぎる。
卑弥呼の初めての朝貢の景初二(238)年の翌年、呉の赤烏二(239)年三月、遼東に駐屯していた魏の守備隊が呉の將軍・孫怡に襲撃され、守備隊長の張持・高慮が戦死し男女が捕虜として連れ去られた。(『呉志』呉主伝:「赤烏二年春三月、遣使者羊衜・鄭冑、將軍孫怡之遼東、撃魏守將張持・高慮等、虜得男女。」)
公孫氏滅亡後も、魏は遼東で呉と直接対決していた。
その最中、卑弥呼の遣使・難升米を洛陽に送っていった劉夏が戦死し、後任に弓遵が帯方太守として就任しているが、弓遵の“着任記事“はない。(景初三(239)年正月朔日、明帝崩御。劉夏の死亡年は不明だが、おそらく「景初三年六月」には死亡していた。正始元(240)年、太守弓遵は建中校尉梯儁等を遣わし、詔書印綬を奉じて倭国に詣らしむ。)
公孫氏滅亡後、高句麗はしばしば遼東を侵略したので、正始五(244)年に幽州刺史毋丘倹がこれを撃った。翌年また叛いたので、毋丘倹は再度出兵した。
弓遵は正始六(245)年の帯方郡崎離営事件に端を発した韓国討伐の最中の正始七(246)年五月に戦死し、急遽、玄菟太守だった王頎が帯方太守に転任した。
王頎が帯方太守として“郡治に着任した” のは正始七(246)年のことである。
〇到官と詣臺
清の梁章鉅の撰になる『称謂録』に「天子の古称、官:魏晋六朝、官と称す」とあり、陳寿の時代、「官」は“天子”を意味した。
起文①の「到官」は“天子に到る”ということである。
南宋の洪邁の撰になる『容斎続筆』に「晋宋の間、朝廷禁省を謂いて臺と為す。故に禁城を称して臺城と為し、官軍を臺軍と為す」とあり、陳寿の時代、「臺」は“天子”を意味した。
結文⑩の「詣臺」も“天子に詣る”である。
⑩の「因詣臺」の「因」は“それにつれて。便乗して。”という意であり(『学研漢和大辞典』)、⑨に「壹與は倭の大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を遣わし、政等を送り還す。」とある掖邪狗等は、正始八(247)年の王頎の洛陽行に便乗して“臺”に詣り、時の天子・少帝曹芳に「男女生口三十人と貢(みつぎ)の白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を献上した」。
王頎が掖邪狗等を同道して「到官」したのは、掖邪狗等朝貢使の主が女王卑弥呼ではなく、その後継女王の壹与だったからである。
〇張政の復命
正始八(247)年、“官”に到った王頎は朝貢使の主が卑弥呼ではなく壹与であることの経緯について、掖邪狗等に送られて帯方郡に帰還した張政の復命に基づいて、時の天子・少帝曹芳に②以下のように報告した。
②は「倭女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼は素(もと)より不和(平和ではない。戦争状態にある)。」
卑弥呼は「倭国大乱」を収めるべく諸国の王に共立されて倭の「女王」となったが、狗奴国の男王・卑弥弓呼だけは卑弥呼の共立には与しなかった。(「其南有狗奴国、男子為王、其官有狗古智卑狗、不属女王」)
素(もと)からというのは卑弥呼が諸国に共立されて女王となった時からということで、大乱収束後も男王・卑弥弓呼は女王・卑弥呼の倭王の座をめぐって争うことになった。
卑弥弓呼と倭王の座をめぐって争うことになった卑弥呼は、魏朝に自分が真の「倭王」であることの認証を求めて景初二(238)年六月、魏朝に朝貢し、同年十二月、明帝から「親魏倭王卑弥呼」に制紹された。
③の「倭は載斯烏越等を遣わし、郡に詣り、相(たが)いに攻撃する状(状態。状況)を説く(説明する)。」は、卑弥呼と卑弥弓呼の交戦状況を説明するために倭国は載斯烏越等を帯方郡に派遣したということ。
倭人伝の遣使記事には景初二(238)年六月の「倭女王、大夫の難升米等を遣わし・・・」や正始四(243)年の「倭王、復た使大夫の伊聲耆・掖邪狗等八人を遣わし・・・」のように、使者を遣わした主格(倭女王・倭王)が書かれているが、③の遣使記事には載斯烏越等を遣わした主格が書かれていない。
③の遣使記事に主格が書かれていないのは、載斯烏越等を遣わしたのが魏朝が認定した「倭王」ではなかったからである。
それでは誰が載斯烏越等を帯方郡に派遣したのか。
④の「塞曹掾史・張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮(さずけあたえる)し、檄を為し之(難升米)に告諭す。」は、正始六(245)年の少帝曹芳の「詔(みことのり)して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮に授ける。」とある詔勅の執行記事である。
難升米に下賜された「黃幢」は軍事指揮や儀仗行列に用いられる旌旗のことで、旌旗のうち特に黄色の軍旗(黄旗)は魏の天子の旗を意味する。
難升米は景初二(238)年に明帝から卑弥呼の親魏倭王の金印紫綬に次ぐ、率善中郎将の銀印青綬を賜った倭国のナンバー2である。
ナンバー2の難升米に天子の詔書や黄幢が下賜されているのは、載斯烏越等が帯方郡に遣わされた正始六(245)年にはナンバー1の卑弥呼はすでに死んでいたからである。
③の倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣したのは難升米であり、時の帯方太守・弓遵に対しての戦況報告は、卑弥呼の戦死報告と魏朝への軍事支援の要請であった。
軍事支援の要請を受けて発せられた詔勅を執行するために張政が来倭したのは正始六(245)年のことであり、張政は難升米に黄幢を拝仮するとともに、難升米を死んだ卑弥呼の後継者とする「檄(めしぶみ)をなし之(難升米)に告げ諭した。」
⑤は、「卑弥呼は以(すで)に死す。大いに冢(墳墓)を作る。徑(円のさしわたし)百余歩。葬に徇(したが)う者、奴婢百余人」。
「卑弥呼以死」を<卑弥呼、以って死す>と読むと「以って」は卑弥呼の死の理由となるが、卑弥呼の死の理由についてはどこにも書かれていない。
『魏志』傅嘏伝の「今権以死、託孤於諸葛恪」は、裴注所引の司馬彪の『戦略』には「今権已死、託孤於諸葛恪」とあり、「以死」は「已死(すでに死す)」と読む。
⑤は、正始六年に卑弥呼は既に死んでいることを知って来倭した張政の、卑弥呼の墓は「有棺無槨、封土作冢」の直径が百余歩(約25m)の円墳で、卑弥呼の葬(埋葬)に徇(したが)う者が奴婢百余人いたという張政の目撃談である。
⑥は、張政が檄をもって「(卑弥呼に)更えて男王(難升米)を立てしも、国中が服(承服)さず、更に互いに誅殺し、当時1000人あまりが殺された」。
⑦は、難升米を「男王」にしたところ国中が承服せず誅殺しあったので、「復た(元の「女王」に戻すべく)、卑弥呼の宗女(一族の女。おそらく卑弥呼の弟の子)の13歳になる壹与を王としたところ、国中は遂に定(平定)まった」。
⑧の「張政等は檄を以って壹与に告げ諭した」の「檄」は、難升米に告諭した檄の名前を壹与に替えただけのもので、壹与を卑弥呼の後継女王にするというもの。
⑨は、卑弥呼の後継女王に壹与をたてたことで倭国での任務を完了した張政等は、倭国の新女王となった「壹与の遣わした倭大夫・率善中郎将の掖邪狗等に送られて帯方郡に還った」。
正始六(245)年、時の太守・弓遵によって倭国に派遣された張政は、正始八(247)年、掖邪狗等に送られて帯方郡に帰還した。
帯方郡に帰還した張政は時の太守・王頎に、卑弥呼の後継倭王が難升米ではなく壹与になったことの経緯について復命した。
陳寿は『三国志』魏書巻三十の最後を、⑩の壹與の朝貢記事で結んでいる。
『冊府元亀』:「(正始)八年、倭国女王一與、大夫掖邪狗等を遣わす。臺に詣り、一(天子?)に男女生口三十人を献じ、白珠五千枚、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す。」
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