2024年9月13日金曜日

25. 「倭国大乱」の時期

 「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。」

 

倭の諸国が互いに新しい倭王の座を争ったいわゆる倭国大乱(『魏志』倭人伝は「倭国乱」)は、互いに争っていた諸国が卑弥呼を新たな倭王として共立することによって収束した。

 

その倭国大乱の時期については「住七八十年」とあるだけで、『魏志』倭人伝からはそれが何時のことなのかは分からない。

 

『後漢書』は『魏志』倭人伝の「倭国乱」を「倭国大乱」とし、これを「桓霊間」とする。(『後漢書』:「桓霊間、倭国大乱、更相攻伐、歴年無主。」)

 

「桓霊」とは後漢の桓帝(147-167)と霊帝(168-189)のことであり、桓帝と霊帝の治世の「間(あいだ)」とは150190年の約40年間に相当する。

 

『後漢書』が倭国大乱の時期を「桓霊間」としているのは「住七八十年」を<住(とど)まること七八十年>と読んで、これを其国本亦以男子為王(その国も元は又、男子を以て王と為す)」とある男王の在位期間と見たのではなかろうか。

 

この男王について『後漢書』は安帝永初元年、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見。」とあり、「桓霊間」は倭国王帥升が貢献した年の永初元(107)年から780年後に相当する。

 

『隋書』も『後漢書』に倣って「桓霊の間」とする。(『隋書』:「桓霊之間、其国大乱、遞相攻伐、歴年無主。」)

 

『梁書』は「桓霊間」も霊帝の光和中(178183)とする。(『梁書』:「漢霊帝光和中、倭国乱、相攻伐歴年」)

 

『梁書』が霊帝の光和中としているのは倭国王帥升の永初元(107)年から780年後に桓帝の治世は含まないからだろう。

 

『北史』も『梁書』に倣って霊帝の光和中とする。(『北史』:「靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐、歴年無王」)

 

『晋書』は「漢末、倭人乱、攻伐不定」とする。

 

後漢の滅亡は220年であるから、「漢末」と「光和」では40年ほどの違いがある。

 

『晋書』の撰者・房玄齢は「住七八十年」の「住」を“とどまる”とは読んではいないのではないか。

 

「漢末」は陳寿の魏志編纂のなった晋の太康年間(280-289) からおよそ七八十年前に当たる。

 

『釈文』に「住、或作往」とあり、「往」には「むかし、いにしえ、又、すぎ去ったこと」という意がある。

 

『晋書』の撰者・房玄齢は「住七八十年」を“七八十年前”と読んでいるのではなかろうか。

 

陳寿の「其国本亦以男子為王」は「女」が王になるという概念のない中国人に対して、一女子の卑弥呼を共立して王とした「女王国」も、元は中国と同じく男子をもって王としていたと説明しているにすぎない。この「前説」に男王の在位期間など必要ない。

 

「住七八十年」を一人の王の在位期間とすると、これはいかにも長すぎる。

 

『梁書』がいうように霊帝の光和中に倭国の乱が起こったとすると、卑彌呼の即位はその78年後の190年頃のことになる。卑彌呼の死は246年頃であるから「年已長大」の即位から60年近くの在位というのは考えがたい。

 

「倭国大乱」の時期は『晋書』のいう「漢末」とするのが妥当であろう。

 

陳寿は烏丸鮮卑伝の序文で「四夷の変」の記述対象時期を「漢末魏初以来」としている。

 

『魏志』烏丸鮮卑伝序文:

烏丸・鮮卑即古所謂東胡也。其習俗・前事、撰漢記者已錄而載之矣。故但舉漢末魏初以來、以備四夷之變。」

<烏丸・鮮卑は即ち古に謂う所の東胡なり。其の習俗・前事は漢記を撰する者、已に録してこれに載せたり。故に但(ここでは)、漢末魏初以来を挙げ、以って四夷の変(うつりかわり)を備(つぶさ)にす。>

2024年7月28日日曜日

24.卑弥呼の死と壹与の朝貢の時期:正始八年条を読み解く

 

正始八年条)

其八年、太守王到官

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼、素不和。

③遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃状。

④遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。

⑤卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。

⑥更立男王、國中不服更相誅殺、當時殺千餘人。

⑦復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。

⑧政等以檄告喩壹與。

⑨壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。

詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

 

の「着任」

 正始八(247)年条は①の帯方太守・王の「到官」で文を起こし、⑩の卑弥呼の後継女王・壹与の遣使・掖邪狗等の「詣臺で文を結んでいる。

到官」の官を官衙(郡治)として、これを正始八(247)が帯方太守として“郡治に着任したと解する向きもあるが、玄菟太守だった頎が帯方太守に転任したのは前任の弓遵が戦死した正始七(246)年のことである。

頎の帯方郡治の着任が一年後の正始八(247)年というのは、公孫氏滅亡後の半島情勢を鑑みると如何にもノンビリ過ぎる。

卑弥呼の初めての朝貢の景初二(238)年の翌年、呉の赤烏二(239)年三月、遼東に駐屯していた魏の守備隊が呉の將軍・孫怡に襲撃され、守備隊長の張持・高慮が戦死し男女が捕虜として連れ去られた。(『呉志』呉主伝:「赤烏二年春三月、遣使者羊衜・鄭冑、將軍孫怡之遼東、撃魏守將張持・高慮等、虜得男女。」)

公孫氏滅亡後も、魏は遼東で呉と直接対決していた。

その最中、卑弥呼の遣使・難升米を洛陽に送っていった劉夏が戦死し、後任に弓遵が帯方太守として就任しているが、弓遵の着任記事“はない。(景初三(239)年正月朔日、明帝崩御。劉夏の死亡年は不明だが、おそらく「景初三年六月」には死亡していた。正始元(240)年、太守弓遵は建中校尉梯儁等を遣わし、詔書印綬を奉じて倭に詣らしむ。)

公孫氏滅亡後、高句麗はしばしば遼東を侵略したので、正始五(244)年に幽州刺史毋丘倹がこれを撃った。翌年また叛いたので、毋丘倹は再度出兵した。

弓遵は正始(245)年の帯方郡崎離営事件に端を発した韓国討伐の最中の正始七(246)年五月に戦死し、急遽、玄菟太守だった頎が帯方太守に転任した。

が帯方太守として“郡治に着任したのは正始七(246)年のことである。

到官と詣臺

清の梁章鉅の撰になる『称謂録』に「天子の古、官:魏晋六朝と称すとあり、陳寿の時代、「官天子”を意味した。

起文①の「到官」は“天子に到る”ということである。

宋の洪邁の撰になる『容斎続筆』に「晋宋の間、朝廷禁省を謂いて臺と為す。故に禁城を称して臺城と為し、官軍を臺軍と為す」とあり、陳寿の時代、「臺」は“天子”を意味した。

結文⑩の「詣臺」も“天子に詣る”である。

⑩の「因詣臺」の「因」は“それにつれて。便乗して。”という意であり(『学研漢和大辞典』)、⑨に「壹與は倭の大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を遣わし政等を送り還す。」とある掖邪狗等は、正始八(247)年の王頎の洛陽行に便乗して“臺”にり、時の天子・少帝芳に「男女生口三十人と貢(みつぎ)の白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を献上した」。

頎が掖邪狗等を同道して到官」したのは、掖邪狗等朝貢使の主が女王卑弥呼ではなく、その後継女王の壹与だったからである。

張政の復命

正始(247)年、に到った王頎は朝貢使の主が卑弥呼ではなく壹与であることの経緯について、掖邪狗等に送られて帯方郡に帰還した張政の復命に基づいて、時の天子・少帝芳に以下のように報告した。

②は「倭女王・卑狗奴国の男王・卑弓呼(もと)より不(平和ではない戦争状態にある)。」

卑弥呼は「倭国大乱」を収めるべく諸国の王に共立されて倭の「女王」となったが、狗奴国男王・卑弓呼だけは卑弥呼の共立には与しなかった。(「其南有狗奴国、男子為王、其官有狗古智卑狗、不属女王」)

素(もと)からというのは卑弥呼が諸国に共立されて女王となった時からということで、大乱収束後も男王・弓呼は女王・卑弥呼の倭王の座をめぐって争うことになった。

弓呼倭王の座をめぐって争うことになった卑弥呼は、魏朝に自分が真の「倭王」であることの認証を求めて景初二(238)年六月、魏朝に朝貢し、同年十二月、明帝から「親魏倭王卑弥呼」に制紹された。

③の「倭は載斯烏越等を遣わし、郡に詣り、相(たが)いに攻撃する状(状態。状況)を説く(説明する)。」は、呼と卑弓呼の交戦状況を説明するために倭国は載斯烏越等を帯方郡に派遣したということ。

倭人伝の遣使記事には景初二(238)年六月の「倭女王、大夫難升米等を遣わし・・・」正始四(243)年の「倭王、復た使大夫の伊聲耆掖邪狗等八人を遣わし・・・」のように、使者を遣わした主格(倭女王・倭王)が書かれているが、③の遣使記事には載斯烏越等を遣わした主格が書かれていない

③の遣使記事に主格が書かれていないのは、載斯烏越等を遣わしたのが魏朝が認定した「倭王」ではなかったからである。

それでは誰が載斯烏越等を帯方郡に派遣したのか。

④の「塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書黄幢(もたら)し、難升米に拝仮(さずけあたえる)し、檄を為し難升米)に告諭す。」は、正始六(245)少帝曹芳の「(みことのり)して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮ける。」とある詔勅の執行記事である。

難升米に下賜された「黃幢」は軍事指揮や儀仗行列に用いられる旌旗のことで、旌旗のうち特に黄色の軍旗(黄旗)は魏の天子の旗を意味る。

難升米は景初二(238)年に明帝から卑弥呼の親魏倭王の金印紫綬に次ぐ、率善中郎将の銀印青綬を賜った倭国のナンバー2である。

ナンバー2の難升米に天子の詔書黄幢が下賜されているのは、載斯烏越等が帯方郡に遣わされた正始六(245)年にはナンバー1の卑弥呼はすでに死んでいたからである。

③の倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣したのは難升米であり、時の帯方太守・弓遵に対しての戦況報告は、卑弥呼の戦死報告と魏朝への軍事支援の要請であった。

軍事支援の要請を受けて発せられた詔勅を執行するために張政が来倭したのは正始六(245)年のことであり、張政は難升米に黄幢を拝仮するとともに、難升米を死んだ卑弥呼の後継者する「(めしぶみ)をなし難升米)に告げ諭した。」

⑤は、「卑弥呼は以(すで)に死す。大いに冢(墳墓)を作る。徑(円のさしわたし)百余歩。葬に徇(したが)う者、奴婢百余人」。

「卑呼以死」を<卑弥呼、以って死す>と読むと「以って」は卑弥呼の死の理由となるが、卑弥呼の死の理由についてはどこにも書かれていない。

『魏志』傅嘏伝の「今権以死、託孤於諸葛恪」は、所引の司馬彪の『戦略』には「今権已死、託孤於諸葛恪」とあり、「以死」「已死(すでに死す)と読む

⑤は、正始六年に卑弥呼は既に死んでいることを知って来倭した張政の、卑弥呼の墓は「有棺無槨、封土作冢」の直径が百余歩(約25m)の円墳で、卑弥呼の葬(埋葬)に徇(したが)う者が奴婢百余人いたという張政の目撃談である。

⑥は、張政がをもって「(卑弥呼に)更えて男王(難升米)を立てしも、国中が服(承服)さず、更に互いに誅殺し、当時1000人あまりが殺された」。

⑦は、難升米を「男王」にしたところ国中が承服せず誅殺しあったので、「復た(元の「女王」に戻すべく)、卑弥呼の宗女(一族の女。おそらく卑弥呼の弟の子)の13歳になる与を王としたところ、国中は遂に定(平定)まった」。

⑧の「張政等を以って与に告げ諭した」の「檄」は、難升米告諭した檄の名前を与に替えただけのもので、与を卑弥呼の後継女王にするというもの

⑨は、卑弥呼の後継女王にをたてたことで倭国での任務を完了した張政等は、倭国の新女王となった「与の遣わした倭大夫・率善中郎将の掖邪狗等に送られて帯方郡に還った」。

正始六(245)年、時の太守・弓遵によって倭国に派遣された張政は、正始八(247)年、掖邪狗等に送られて帯方郡に帰還した。

帯方郡に帰還した張政は時の太守・頎に、卑弥呼の後継倭王が難升米ではなく与になったことの経緯について復命した。

陳寿は『三国志』魏書巻三十の最後を、⑩の壹與の朝貢記事で結んでいる。

『冊府元亀』:「(正始)八年、倭国女王一與、大夫掖邪狗等を遣わす。臺に詣り、一(天子?)に男女生口三十人を献じ、白珠五千枚、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す。」

2024年7月15日月曜日

23.二郡平定と四千里征伐

後漢の末、遼東で事実上の自立を果たしていた公孫氏は初代の度、2代の度の子の康、3代の康の弟の恭、4代の2代康の子の淵の3世にわたって遼東を支配した。天子は遼東が絶域のため海外のことは公孫氏に委ねていたが、4代・淵になって遂に東夷を隔断し、中国への朝貢ルートを通じなくした。(『魏志』東夷伝序文「而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域、委以海外之事。遂隔斷東夷、不得通於諸夏。」)

 

建安九(204)年、公孫氏初代・度が死んで息子の康がその後を継ぐと、は朝鮮半島南部の経営の拠点とすべく楽浪郡の屯有縣以南を分けて帯方郡とした。康の配下の公孫模・張敞等が遺った民を収集して兵を興して韓・濊を討伐した。この後、倭・韓は遂に公孫氏の帯方郡に服属した(公孫氏に朝貢することになった)。『魏志』韓伝「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡、遣公孫模張敞等、收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出。是後倭韓遂屬帶方。」)

 

黄初七(226)年、文帝亡きあとを受けて、明帝が即位。

夷蛮からの朝貢を皇帝の徳とする明帝にとって、倭・韓からの朝貢ルートを隔断する公孫氏は目の上のたん瘤であった。

 

太和二(228)年、公孫氏3代・恭を、甥の淵が脅迫してその地位を奪取すると、明帝は淵の懐柔を謀り、淵を楊烈将軍・遼東太守に任命した。(『魏志』公孫度伝:「太和二年、淵脅奪恭位。明帝即拜淵揚烈將軍・遼東太守。」)

 

呉の嘉禾元(232)年三月、呉の孫権は魏を背後から圧迫するため公孫淵に接近をはかって、將軍の周賀と校尉裴潜を海路遼東に向かわせた。(『呉志』呉主権伝:嘉禾元年春正月、建昌侯慮卒。三月、遣將軍周賀校尉裴潛乘海之遼東。)

 

呉の嘉禾元(232)年十月、公孫淵も使者を孫権のもとに送り、権のまもりになると称し、貂・馬を献じるとともに、藩を称して呉に臣属する態度を示した。孫権は大よろこびをして公孫淵に使持節督幽州・青州牧・遼東太守・燕王の爵位を加えた。(『呉志』呉主権伝:「(嘉禾元年)冬十月、魏遼東太守公孫淵遣校尉宿舒中令孫綜稱藩於權、并獻貂馬。權大悅、加淵爵位。」

 

太和七(233)年、明帝は呉の孫権が公孫淵に燕王の爵位を加えると、対抗して淵に大司馬を拝し楽浪公の爵位を追封した。(『魏志』公孫度伝:「明帝於是拜淵大司馬、封樂浪公」

 

この爵位の追封は公孫淵の暗殺を狙ったもので、遼東に派遣された封爵使節団は選り抜きの猛者で構成されていた。

 

財政報告のために洛陽に赴いていた公孫淵の計吏がこの事実を察知して、封爵使節よりも一足早く遼東に帰還して淵に報告した。

 

淵は封爵使節を完全武装した兵士に囲ませた陣内に迎え、さらに賓客が列席するところで悪口を並べるという非礼をかさねた。

 

封爵使節は公孫淵の暗殺という使命を果たせず、洛陽に帰還した。

 

太和の末、公孫淵が遼東をたてに反逆した。明帝は公孫淵を征討したいと思ったが、司馬懿仲達は対蜀戦の最中だった。(『魏志』田豫伝:「太和末、公孫淵以遼東叛、帝欲征之而難其人。」)

 

呉の青龍二(234)、五丈原の戦いの最中に諸葛亮孔明が病死し、蜀軍は撤退した。仲達は撤退した蜀軍を追撃しようとしたが、明帝は仲達を京師に呼び戻し公孫淵討伐の軍議を謀った。(いわゆる「死せる孔明、生ける仲達を走らす(死諸葛、走生仲達)」)

 

『魏志』明帝紀裴注所引干宝の『晋紀』に曰く、

 

帝問宣王:「度公孫淵將何計以待君?」

<明帝、宣王仲達に問う:公孫淵はどんな計略によって君に対応すると思うか?>

 

宣王對曰:「淵棄城預走、上計也、據遼水拒大軍、其次也、坐守襄平、此為成禽耳。」

<仲達、対して曰く:公孫淵は城を棄てて逃走するのが最善策です。遼水(遼河)に拠り大軍を拒むのは次善の策です。座して襄平城を守れば、生け捕りになるだけです。>

 

帝曰:「然則三者何出?」

<明帝、曰く:然らばこの三策のうちどの手に出るだろうか?>

 

對曰:「唯明智審量彼我、乃預有所割棄、此既非淵所及」、又謂、「今往縣遠、不能持久、必先拒遼水、後守也。」

<対して曰く:ただ明智あれば彼我を審量し、城を棄てることがありますが、それはとうてい公孫淵の考え及ぶところではありません。又、謂う。今は遠くに出かけるのですから、持久戦は不可能です。必ず先手をうって遼水で拒み、後に守りを固めます。>

 

帝曰:「住還幾日?」

<明帝、曰く:往復に何日かかるか?>

 

對曰:「往百日、攻百日、還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣。」

<対して曰く:往くに百日、攻めるに百日、還るに百日、六十日をもって休息とします。このようにすれば、一年で足ります。>

 

景初元(237)年七月辛卯(26日)、公孫淵は自ら「燕王」と称し、魏、蜀、呉につづく四番目の王朝として国号を「燕」、年号を「紹漢」とした。(『魏志』明帝紀:「(景初元年秋七月)辛卯、太白晝見、淵自儉還、遂自立爲燕王、置百官、稱紹漢元年。」)

 

明帝は公孫淵討伐を決行するに当たり、公孫淵にとっての最善策である城を棄てて呉への逃げ道となる楽浪・帯方の二郡を制圧するため、青州・兗州・幽州・冀州の四州に詔勅を下して大いに海船を作らせた。(『魏志』明帝紀:「詔、青・・幽・冀四州大作海船。」)

 

景初元(237)年、明帝は公孫淵に気づかれぬよう、密(ひそか)に帶方太守の劉昕、樂浪太守の鮮于嗣を遣わし、海を越えて二郡を平定し公孫淵の退路を断つとともに、公孫氏に服属していた東夷の倭・韓を屈服させた。(『魏志』韓伝:「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡。」、『魏志』東夷伝序:「景初中、大興師旅誅淵、又濳軍浮海、收樂浪帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。」)

 

二郡平定作戦を成功させた帯方太守劉昕のその後の消息は不明だが、劉昕の後任太守が景初二(238)年六月に卑弥呼の遣使を洛陽に送って行った劉夏であるので、おそらく劉昕は景初元年には死亡していた。

 

明帝は公孫淵の退路を断つ二郡接収を見定めると景初二(238)年春正月、大尉・司馬懿仲達を征東将軍に任命し、公孫淵討伐いわゆる四千里征伐を開始した。(『魏志』明帝紀:「景初二年春正月、詔太尉司馬宣王、帥衆討遼東。」)

 

初め、明帝は公孫淵討伐に司馬懿仲達に四万人の兵を与えることを議臣に諮ったところ、議臣は皆、四万兵では戦費が供し難いので多すぎるとしたが、明帝は『四千里(遼東の代名詞)を征伐するに、奇を用いると云うと雖も、また力に任せて当る、役費(戦費)の稍計(出し惜しみ)するにあたわず。』と議臣の反対を押し切り、遂に四萬人を以って決行した。(『魏志』明帝紀:「初、帝議遣宣王討淵、發卒四萬人。議臣皆以為四萬兵多、役費難供。帝曰:『四千里征伐、雖云用奇、亦當任力、不當稍計役費。』、遂以四萬人行。」)

 

景初二(238)年正月、仲達は牛金・胡遵らに歩兵・騎兵四万を師いさせ洛陽を出発した。(『晋書』宣帝紀:「景初二年、帥牛金・胡遵等歩騎四萬、發自京都。」

 

仲達は洛陽を出発したときから、賊が攻撃してくることは恐れておらず、ただ賊が逃走することばかりを恐れていた。(『晋書』宣帝紀:「自發京師、不憂賊攻、但恐賊走。」)

 

景初二年六月、仲達軍は遼東に到着した。帯方太守劉夏は部下を遣わし卑弥呼の遣使・難升米等を将い送らせ京都に詣らしめた。(『魏志』倭人伝:「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏、將送詣京都。」)

 

公孫淵は淵にとっての次善の策である、将軍卑衍に仲達軍を逆戦(迎え撃つ)させたが、仲達は将軍胡遵等を遣わしこれを撃破した。(『魏志』公孫淵伝:「宣王軍至、令衍逆戰。宣王遣將軍胡遵等撃破之。」)

 

公孫淵は仲達の思惑どおり、公孫淵にとって最下策である襄平城籠城に追い込まれた。

 

景初二年八月丙寅(7日)、仲達は公孫淵を襄平城に圍(かこ)み、大いに之を破り、公孫淵の首を洛陽に伝えられた。ここに燕はその誕生から僅か一年で滅亡し海東の諸郡は全て平定された。(『魏志』明帝紀:「(景初二年八月)丙寅、司馬宣王圍公孫淵襄平、大破之、傳淵首于京都、海東諸郡平。」、『魏志』公孫淵伝:「傳淵首洛陽。遼東、帶方、樂浪、玄菟悉平。」)

 

遼東公孫氏は度が中平六(189)年に遼東に割拠して以来、淵まで三世四代、およそ五十年にして滅んだ。 (『魏志』公孫度伝:始度以中平六年據遼東、至淵三世、凡五十年而滅。」)

 

景初二年十一月、明帝は公孫淵を討伐し倭国の朝貢を実現した仲達の功績を記録して、仲達以下に領邑の加増、封爵を行ったが、功績の度合いによって各々に差はあった。(『魏志』明帝紀:「冬十月、録討淵功、太尉宣王以下増邑封爵各有差。」)

 

景初二年十二月、明帝は海外の遥か遠き所から朝貢をしてきた卑弥呼を「親魏倭王卑弥呼」に制詔した。(『魏志』倭人伝:「其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼。」

 

22.狗古智卑狗と利歌彌多弗利

中国語で外国人の名前をその外国人の発音通り(聞き取れた音のとおり)に表記しようとすれば、その発音に近い音韻を持つ字群(韻書)の中から文字が選択されるのであろう。

 

そして、その選択された文字列が中国古文のように句読点のない文章中に初めて出てきた場合、読者はのようにしてどこからどこまでが名前だと判断するのだろうか。

 

「倭女王卑弥呼与狗奴男王卑弓呼素不和」にある狗奴国王の名は「卑弥弓呼」と解されるのが一般的であるが、これを「卑弥弓呼素」までが名前だとする説もある(内藤湖南「ヒメコソ」説)

 

狗奴国王の名がたとえ「卑弥弓呼素」までが名前だとしても、この文意が卑弥弓と卑弥弓呼素の関係が「不和」ということでは変わらない。

 

しかし、外国人の名前には「不・弗・無・莫・勿・非・未」といった否定語は用いないという原則でもあれば兎も角、そのような決まりがなければ読者の中には「卑弥弓呼素不」までが名前だとして卑弥呼と卑弥弓呼素不は和す」と読む人がいないとも限らない

 

つまり、名前に続く文章の先頭文字が否定語の場合、ここまでを名前として間違って読まれたら、その文章の意味は逆転てしまう。

 

「其官有狗古智卑狗不女王」とある「狗古智卑狗「狗古智卑狗不」まで名前として読むと文意は逆転して“女王に属す”となってしまう。

 

隋書』の「名太子利歌多弗利無城郭」とある「利歌多弗利」は、日本の太宰府天満宮にのみ残る唐の張楚金になる『翰苑』の「阿輩雞弥 自表天称」に対する雍公叡注に「王長子号多弗利華言太子」とある。(但し、《和》は後に原文に朱書きで加筆されたもの。)

 

「狗古智卑狗」や「利歌多弗利」は、名前に続く文章の先頭文字が否定語になる場合、名前の文字列の語尾の字を語頭に置いて、語頭の次から否定語の前の語尾までが名前だと読者に示し、文意を逆にとられるのを避けるための表記法ではないのだろう

 

翰苑』を注釈した雍公叡はこの表記法を知っており、自分の注釈文に『隋書』から引くときに名前の後に否定語がこなかったので語頭の「利」をはずして「歌多弗利」とした。

 

後の『翰苑』の読者(おそらく「ワカミタフリ」を知る日本人)はそれを知らず、雍公叡が『隋書』の「利」を脱字したものとみて、そして『隋書』の「利」は「和」の誤字として《和》と朱書加筆したのではなかろうか。

 

そうであれば、狗奴国王の名が内藤説の「卑弥弓呼素」だとすると、「卑弥弓呼素不和」は「素卑弥弓呼素不和」となっていなければならない。

 

そうはなっていないのだから、狗奴国王の名は「卑弥弓呼」であり、その官の名は「古智卑狗」である。

 

 白鳥庫吉倭女王卑弥呼考』:日韓古史斷ハ、更ニ進ミテ、狗奴ハ河野ニシテ、其官有狗古智卑狗ハ、河野氏ノ遠祖子致彦ヲ云フト云ヘリ。