「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。」
倭の諸国が互いに新しい倭王の座を争ったいわゆる倭国大乱(『魏志』倭人伝は「倭国乱」)は、互いに争っていた諸国が卑弥呼を新たな倭王として共立することによって収束した。
その倭国大乱の時期については「住七八十年」とあるだけで、『魏志』倭人伝からはそれが何時のことなのかは分からない。
『後漢書』は『魏志』倭人伝の「倭国乱」を「倭国大乱」とし、これを「桓霊間」とする。(『後漢書』:「桓霊間、倭国大乱、更相攻伐、歴年無主。」)
「桓霊」とは後漢の桓帝(147-167)と霊帝(168-189)のことであり、桓帝と霊帝の治世の「間(あいだ)」とは150~190年の約40年間に相当する。
『後漢書』が倭国大乱の時期を「桓霊間」としているのは「住七八十年」を<住(とど)まること七八十年>と読んで、これを「其国本亦以男子為王(その国も元は又、男子を以て王と為す)」とある男王の在位期間と見たのではなかろうか。
この男王について『後漢書』は「安帝永初元年、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見。」とあり、「桓霊間」は倭国王帥升が貢献した年の永初元(107)年から7~80年後に相当する。
『隋書』も『後漢書』に倣って「桓霊の間」とする。(『隋書』:「桓霊之間、其国大乱、遞相攻伐、歴年無主。」)
『梁書』は「桓霊間」も霊帝の光和中(178~183)とする。(『梁書』:「漢霊帝光和中、倭国乱、相攻伐歴年」)
『梁書』が霊帝の光和中としているのは倭国王帥升の永初元(107)年から7~80年後に桓帝の治世は含まないからだろう。
『北史』も『梁書』に倣って霊帝の光和中とする。(『北史』:「靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐、歴年無王」)
『晋書』は「漢末、倭人乱、攻伐不定」とする。
後漢の滅亡は220年であるから、「漢末」と「光和」では40年ほどの違いがある。
『晋書』の撰者・房玄齢は「住七八十年」の「住」を“とどまる”とは読んではいないのではないか。
「漢末」は陳寿の魏志編纂のなった晋の太康年間(280-289) からおよそ七八十年前に当たる。
『釈文』に「住、或作往」とあり、「往」には「むかし、いにしえ、又、すぎ去ったこと」という意がある。
『晋書』の撰者・房玄齢は「住七八十年」を“七八十年前”と読んでいるのではなかろうか。
陳寿の「其国本亦以男子為王」は「女」が王になるという概念のない中国人に対して、一女子の卑弥呼を共立して王とした「女王国」も、元は中国と同じく男子をもって王としていたと説明しているにすぎない。この「前説」に男王の在位期間など必要ない。
「住七八十年」を一人の王の在位期間とすると、これはいかにも長すぎる。
『梁書』がいうように霊帝の光和中に倭国の乱が起こったとすると、卑彌呼の即位はその7~8年後の190年頃のことになる。卑彌呼の死は246年頃であるから「年已長大」の即位から60年近くの在位というのは考えがたい。
「倭国大乱」の時期は『晋書』のいう「漢末」とするのが妥当であろう。
陳寿は烏丸鮮卑伝の序文で「四夷の変」の記述対象時期を「漢末魏初以来」としている。
『魏志』烏丸鮮卑伝序文:
「烏丸・鮮卑即古所謂東胡也。其習俗・前事、撰漢記者已錄而載之矣。故但舉漢末魏初以來、以備四夷之變。」
<烏丸・鮮卑は即ち古に謂う所の東胡なり。其の習俗・前事は漢記を撰する者、已に録してこれに載せたり。故に但(ここでは)、漢末魏初以来を挙げ、以って四夷の変(うつりかわり)を備(つぶさ)にす。>