2024年7月15日月曜日

21.山島と洲島

『魏志』倭人伝冒頭の「倭人在帯方東南大海之中山嶋為国。<倭人は帯方東南大海り、って国を為す。>」とある「山島」とは、対馬海峡を三等分するかのように存在する、島の89%を山地が占め対馬(対海国)や標高212.8mの岳の辻を擁する壱岐(一大国)のように山のある島のことである。

 

対馬海峡を千里~千里~千里と渡海してきた九州も、故なくして火起こる阿蘇山をはじめ多くの火山を擁する「山島」である。

 

風俗記事の最後の「参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千。」とある「洲島」とは川の中で土砂が堆積してできた中洲状の島のことで、海島の場合、例えばサンゴ礁の海底隆起によって形成された平べったい島のことである。

 

中国から見て絶在海中陸を遠く離れた海の彼方)の洲島(中洲状の島)が或絶或連(遠く或いは近く連なる)しているは、山島である九州の南の東シナ海に連なる南西諸島以外にみられない。

 

〇「周旋五千里」

 

「周旋」とは“あまねく巡る。すみずみまで行き渡る。渡り歩く。旋回する。”という意であり、遠く或いは近くに連なっている洲島の上を“端から端まで行き渡る”ということ。

 

『魏志』崔伝に「既受遣、而寇盜充斥、西道不通。于是周旋青、徐、兗、豫之郊、東下壽春、南望江湖。<崔は既に受遣していたが、寇盜(盗賊)が充斥(満ち溢れる)しており、西への道は通じなかった。そのため、青州・徐州・兗州・豫州の郊外を周旋(渡り歩く)し、東に向かって寿春まで下り、南に江・湖(江西省と湖南省、江南地方)を望む(眺めやった)。>」とある。

 

五千」は約375kmである。

 

南西諸島のうち奄美群島の端から沖縄諸島の端までは約350kmであり、それはほぼ浙江省の東に位置する。

 

古来、浙江省の東の海は「会稽海外」と称された。

 

前漢書地理志呉地の条に「会稽海外有東人、分為二十余国、以歳時来献見云。」とある。

 

〇「問」

 

“問い参る”の「問う」は知りたいことをたずねる。聞く。質問する。ということ。(『大辞林』)

 

「参る」は行く、来るの謙譲語、目上の人や身分の高い人に対して用いる。ということ。(『角川古語辞典』)

 

陳寿が“倭地を問い参ると謙譲語を使った身分の高い人物とは誰か?

 

歴史上、倭地を問い参らせた人物は『後漢書』の建武中元二(57)年条に倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬。」とある光武帝である。

 

光武帝は奉貢朝賀してきた倭奴国の使者に、『前漢書』地理志燕地の条に「樂浪海中有倭人、分爲百餘國<楽浪海中、倭人あり、分かれて百余国を為す>」とある、楽浪海中の倭国の「南界」を問い参らせた。

 

倭奴国の使者は答えて曰く、《会稽海外の東人の国が倭国の南界である。》

 

光武帝は人の国が倭国の「南界」と知るや、倭奴国に金印紫綬を下賜した。

 

「(光武帝が)倭地(の南界)を問い参らすに、(使者が答えるには、そこは稽海外の東人の国で絶在海中(=会稽海外)の或絶或連(遠く或いは近く連なる)洲島(中州状の島)の上を、周旋(端から端まで行き渡る)すること五千余里(約375km)可(ばか)り。」

 

『魏志』倭人伝に「人」に関する記述がないのは、陳寿のこの一文が東人の国についての記述だからである。

 

亶洲と夷洲

 

『後漢書』は倭伝に続けて「會稽海外有東人、分爲二十餘國。又有夷洲亶洲。傳言、秦始皇帝遣方士徐福、將童男女數千人、入海求蓬莱、神仙不得。徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至。亶洲者所在絶遠、不可往來。<会稽海外に東人あり、分かれて二十余国を為す。また、夷洲および亶洲あり。伝えて言う、始皇帝は方士徐福を遣わし、童男女数千人を将いて、海に入り蓬莱を求めしも、神仙を得ず。徐福は誅されるのを畏れて敢えて還らず、遂にこの洲に止まり、世世相承し、数万家あり。人民、時に会稽に至り市(市場)す。会稽東冶県の人、海に入り、風に遭いて行きて、流い移りて至る有り』と。亶洲は在るところ絶遠にして、往すべからず。>」としている。

 

この記事中の「又有夷洲及亶洲・・・」以下の記事は、『呉志呉主権伝の黄龍二(230)年条の「遣將軍衛温諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲亶洲。亶洲在海中長老傳言、秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、求蓬神山及仙藥、止此洲不還。世相承有數萬家、其上人民、時有至會稽貨布。會稽東縣人海行、亦有遭風流移至亶洲者。所在遠、卒不可得至、但得夷洲數千人還。<(孫権は)将軍衛、諸葛直を遣し甲士一万人をいて海に浮かび夷洲及び亶洲を求めしむ。亶洲は海中に在り。長老、伝えて言う、『秦の始皇帝方士徐福を遣し童男童女千人をいて海に入り、蓬莱・神山及び仙を求めしむるも、此の洲に止まりて還らず。世(代々)、相承し数万家有り。其の上の人民、時に有りて会稽に至り貨布す。会稽の人、海に行き、また風に遭い流移して亶洲に至る者有りと。在遠にして卒を得て至るべからずただ夷洲の千人を得て還る。>」からの引用である。

 

三国時代は戦乱、飢饉、疫病の流行などで人口が激減し、どの陣営も兵士不足に悩まされた。

 

呉の孫権は黄龍二(230)、兵力の不足を「人狩り」で補うため、将軍の温と諸葛直に兵士1万人の船団を率いさせ夷洲および亶洲に派遣した。

 

『後漢書』は夷洲・亶洲は共に会稽海外にあるとするが、陳寿は亶洲は海中(楽浪海中?)にあるとしている。

 

列島各地に徐福伝説の地がある。

 

“在遠にして卒を得て至るべからず”という亶洲は日本列島で、“ただ千人を得て還る” という夷洲は琉球沖縄ではなかろうか。

 

(余談) 

清の胡渭になる禹貢錐指』に「、後漢謂之大倭國、即今日本」とある。

20.奴国は倭国の極南界?


『後漢書』:「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬

 

後漢の建武中元二(57)年に光武帝から賜った金印の「漢委奴国王」を<漢の委(ワ)の奴(ナ)の国の王>と読んだ三宅米吉は、中元二年条中の「倭国之極南界也」を倭国の極南界なりと「也」を決定をあらわすなりとして読み、この一文は奉貢朝賀してきた「奴国の所在地についての范曄の地の文とする。

 

『魏志』倭人伝には奴国は「女王国より以北」と其の余の旁国」の2国があるが、三宅説はこの「倭の奴国」を金印の出土した「女王国より以北」の九州北岸部に比定する。

 

しかし、九州北岸部を「倭国の極南界というのはあたらない

 

このため三宅説は、『魏志』倭人伝を参考にして『後漢書』倭伝をものしている范曄が、女王国より以北」の奴国と其の余の旁国」の奴国を取り違えてしまったのだという。

 

三宅説を「無理なこじつけ」と批判する古田武彦も、この一文を范曄の奴国に対する地理観とみて「倭国の極南界なり」と読んでいる。

 

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古田武彦『失われた九州王朝極南界問題P45):「狗邪韓国は倭国の西北界(三国志では倭の北岸)である。だから倭地とは、その中心領域を朝鮮・対馬・壱岐の三海峡とする海峡国家だ。倭国の中心国(三世紀の女王国)は、倭国の西北の入口から五千里(漢里では六倍の実体、2255キロメートルを指す)の「極南の地帯」に存在している。これが後漢書倭伝の「倭国の極南界なり」という表現の背景をなす范曄の地理観だったのだ。

***

 

〇「也」と「以」

 

『論語』學而に「夫子至於是邦也、必聞其政。<夫子の是の邦に至るや、必ずその政を聞く。>」とあり、「也」は決定をあらわすなりの意だけでなく、下を起こす辞のの意もある。

 

清の王引之の著わした虚字 (指示詞・接続詞・助詞・副詞など)を解釈した経傳釈詞』に「以、猶由也」とあり、「以って」は理由とある。

 

「倭国之極南界也」に続く「光武賜以印綬光武、以って印綬を賜う」の以っては光武帝が印綬を下賜した理由である。

 

「倭国之極南界也」を范曄の地の文として読むと、光武帝は何を以って印綬を下賜したのかその理由が書かれていないことになる。

 

「倭国之極南界也光武賜以印綬」は<倭国の南界を極むるや、光武帝は以って印綬を賜うと読む。

 

光武帝は倭奴国の使からの情報で倭国の南界を極めることができたので、その功績をもって印綬を下賜したのである。

 

『魏志』婁伝に「婁在夫余東北千余里、浜大海、南与北沃沮接、未知其北所。<婁は夫余の東北千余里に在り、大海に浜し、南、北沃沮と接す、未だ其の北の極むる所を知らず。」とある。

 

中国にとって夷蛮の国の境界を「極める」ことは、極めて重要な関心事であった。

 

〇「使驛所傳於此矣」

 

范曄は『後漢書』倭伝を「自朱儒東南行舩一年至裸國、黒齒國、使驛所傳於此矣」と結んでいる。

 

范曄は倭伝を締めくくるに際し、中元二年条の倭奴国の使者の情報により極めた南界とは何処か考えた

 

『魏志』倭人伝には女王国の東に倭種の国(『後漢書』はこれを「拘奴国」とする)があり、その南に侏儒国があり、更にその東南に船行して1年という極めて遠い所に裸国・黒歯国がある。

 

范曄はこの極めて遠い所の裸国・黒歯国が極めた倭国の南界だろうと判断した。

 

使駅」とは、中元二年に奉貢朝賀した倭奴国の使者である。

 

「極」とは、「倭国極南界也」である。

 

「矣」は断定・決定などの意をあらわすなりの他に、「乎」と同じく疑問・反語の意をあらわすの意味もある。

 

范曄は『魏志』倭人伝の裸国・歯国を指して「使駅の伝えるところの』とは、ここなるか(そう、ここである)」と倭伝を結んでいるのである。


2019年9月4日水曜日

19.倭国と日本国

 『旧唐書』は倭国伝と日本国伝を、それぞれ別に立てている。

 

その倭国伝は「者、古倭奴国は、古倭奴(イト)国なり>」とあり、日本国伝は「日本者、倭之別種也日本国は、倭国の別種なり>」とある。

 

『魏志』倭人伝に「女王東、渡海千里、復有、皆倭種女王国の東、海ることにして、復た国あり、皆倭種。>」とある。

 

「倭種」の皆(国々)とは、倭国とは別種の国である。

 

この「倭種」の国が、『旧唐書』がいう「日本国」ではなかろうか。

 

『旧唐書』日本国伝は「日本の国名の由来について、「以其在日、故以日本為名<その国、日辺にあるをもって、故に日本をもって名となす>」とある。

 

日本の国名の由来は、その国が日辺(ジッペン)にあるからだいう

 

辞書には「日」の字音は呉音で「ニチ」、漢音で「ジツ」とあるが、逆ではなかろうか。

 

普通は清濁が対立するときは元日・連日・休日のように濁っているのが呉音、日本・日課・日報のように濁っていないのが漢音である。

 

初期の遣唐使は漢字を呉音で発音していたので(漢音をまだ知らないので)、「日本」は「ジッポン」と発音していた。

 

その後、遣唐使は「日」が唐音(漢音)では「ニッ」と発音されることを知った。

 

「ジッポン」は「ニッポン」と発音されるようになったが、破裂音を嫌う(唾がとぶので)日本人はいつしか促音のない「二ホン」とも発音するようになり、今では「ニッポン・二ホン」のどちらも「国」をいう正式呼称である。

 

『東方見聞録』マルコポーロ1254-1324は、日本国(ジッポングォ)をジパングZipanguしてヨーロッパに紹介している

 

「日本」の仏名(Japonジャポン)英名(Japanジャパン)は、昔の中国では「日本」を「ジッポン」と発音していたからである(今は「Ribenリーベン」)


2018年9月25日火曜日

18.仏教伝来と文字伝来


 

『隋書』に「無文字、唯刻木結繩。敬法、於百済求得仏経、始有文字。<文字はなく、ただ木を刻み縄を結ぶ。仏法を敬い、百済において仏経を求得し、始めて文字あり。>」とあることから、我が国には仏経が伝来する以前には文字がなかったとされる。

 

しかし、『隋書』の記事は記紀の文字伝来記事と対応しない。

 

〇仏教伝来

 

我が国への仏教伝来については、538年と552年の二説ある。

 

538年説は、『上宮聖德法王帝説』に「志癸嶋天皇(欽明天皇)御世戊午年十月十二日、百済国聖明王、始奉度仏像経教并僧等」とある、欽明天皇の御世の戊午(538)の年の十月十二日に百済国の聖明王が始めて仏像・経教並びに僧等を度(渡)し奉る、とするものである。

 

552年説は、『日本書紀』欽明十三年の「冬十月、百済聖明王更名聖王遣西部氏達率怒唎斯致契等献釈金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻。とある、欽明十三552年の十月百済の聖明王が使者を使わし、金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献上した、とするものであ

 

『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に「大倭国仏法創、自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月、度来。百済国聖明王時太子像并灌之器一具及説起書一筐度」とあり、百済の聖明王が仏教を伝えたのは欽明天皇の七年(546)とあるが、干支年は戊午(538年)とある。

 

平安時代後期の公卿大江匡房の『対馬貢銀記』に「欽明天皇之代、仏法始渡吾土、此島有一比丘尼、以呉音伝之。」とあり、欽明天皇の時代に倭が国に始めて仏法が渡ってきたときに対馬の比丘尼が仏法を「呉音」で伝えたとある。

 

仏法の経論・経教・起書が「呉音」であるのは当然である。

 

隋の大業(608)年倭国に遣わされた裴世清は、この対馬の比丘尼が伝えた「呉音」を「文字」のことと早とちりをしたのではなかろうか。

 

平安末期成立の『日本紀略』延暦十一(792)年に、桓武天皇は「勅。明経之徒、不習正音、発声誦読、既致訛謬、(宜)熟習漢音。<勅す。明経(経書を学ぶこと)の徒は、正音を習わず、誦読を発声するに、既に訛謬に致す。宜しく漢音を熟習すべし。>」と勅命したとある。

 

朝廷は遣唐使の持ち帰った「漢音」を文字を読む「正音」としたが、桓武天皇の時代になっても中国の儒教の経典を学ぶ明経の徒は「正音」を習わず、今までどおり経典を誦読するのに「呉音」を使用していた。

 

ために、桓武天皇は明経の徒にも「漢音を熟習(習熟)すべし」と勅命した。

 

『日本後紀』延暦十二(793)年には、「制、自今以後、年分度者、非習漢音、勿令得度。<制す。今より以後は、年分度者(その年に出家を認められた人)は、漢音を習わずば、得度(悟りを求めて仏道の修行に入ること)せしむることなかれ。>」とある。

 

しかし、仏教の経典はリズムよく誦読するように呉音(上古音)で押韻されており、すでに普及した経の読み方はそう簡単には変わらず、仏教語の漢字音に呉音読みが残った。

 

日本語の漢字音に呉音読みと漢音読みがあるのはこのためである。

 

文字伝来

 

文字の伝来については、『日本書紀』応神十五(284)年に「阿直岐亦能読経典、即太子菟道稚郎子師焉」とあり、経典を能く読む百済の王子阿直岐が入朝し太子菟道稚郎子の師となったとある。

 

翌十六(285)年には「春二月、王仁来之、即太子菟道稚郎子師之、習諸典籍於王仁」とあり、太子菟道稚郎子の師の王仁が来たりて、太子は王仁に諸典籍を習ったとある。

 

王仁(和邇吉師)が持ち来たりた諸典籍について、『古事記』神記に「亦百済国主照古王、以牡馬一疋、牝馬一疋、付阿知吉師以貢上。亦貢上横刀及大鏡。又科賜百済国若有賢人者貢上。故、受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十巻、千字文一巻、并十一巻付是人即貢進」とある。

 

ここにある『千字文』は魏の鍾繇(151-230) になる漢字の習本として用いられた、1000の異なった文字からなる漢文の長詩である。

 

今に残る『千字文』は巻首に「魏大尉鍾繇千字文・右軍将軍王義之奉勅書」とある、魏の鍾繇の『千字文』を晋の王義之が勅を奉じて書いた「二儀日月」で始まる二儀日月千字文』である。

 

一般に知られる『千字文』は梁の周興嗣(470-521)が武帝の勅を奉じて、魏の鍾の『千字文』を韻に従い順序を正したという「天地玄黄」という言葉で始まるもの。

 

日本の地名や人名の漢字音には呉音が伝わる以前に伝わった中国上古音に由来するといわれる「古音」と呼ばれるものがある。(『講談社漢和辞典』「日本漢字音の分類」:「奇(ケ)、宜(ガ)、居(ケ)、挙(ケ)、思(ソ)、移(ヤ)、己(ヨ)、里(ロ)、川(ツ)、止(ト)」)

 

『魏志』倭人伝に「伝送文書・賜遺之物、詣女王」とある魏から卑弥呼に伝送されてきた文書には、鍾繇の『千字文』が含まれていたのかもしれない。

 

それは兎も角、卑弥呼に「文字」が齎されているのは確実である。

 

『魏志』倭人伝には卑弥呼が魏の明帝から「親魏倭王」に制詔(天子の命令)された時(景初二年)の詔書の全文が収載されている。

 

其年十二月、詔書報倭女王曰;『制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使、送汝大夫難升米、次、使都市牛利、奉汝所獻、男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今、以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授。汝其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米牛利、渉遠道路勤勞。今、以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今、以絳地交龍錦五匹、絳地[/] 十張、絳五十匹、紺青五十匹、荅汝所獻貢直。又、特賜汝、紺地句文錦三匹、細班華[/]五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、皆裝封、付難升米・牛利。還到録受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故、鄭重賜汝好物也。』

 

<景初二年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く;『親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏が郡使を遣わし、汝の大夫難升米、次、使都市牛利を送り、汝が献ずるところの男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り、以って到る。汝が在るところ踰(はる)かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚(はなは)だ汝を哀れむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し仮に授ける。汝が其の綏撫する種人に、勉めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り道路勤労す。今、難升米を以って率善中郎將と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見(接見)し労を賜(ねぎら)い遣わし還す。今、絳地交龍錦五匹・絳地[/] 十張・絳五十匹・紺青五十匹を以って汝が献ずるところの貢直に答える。又、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華[/]五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠、鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して、難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以って汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝に好物を賜う也。』>