2024年7月15日月曜日

20.奴国は倭国の極南界?


『後漢書』:「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」

 

後漢の建武中元二(57)年に光武帝から賜った金印の「漢委奴国王」を<漢の委(ワ)の奴(ナ)の国の王>と読んだ三宅米吉は、中元二年条中の「倭国之極南界也」を<倭国の極南界なり>と「也」を決定をあらわす「なり」として読み、この一文は奉貢朝賀してきた「倭の奴国」の所在地についての范曄の地の文とする。

 

『魏志』倭人伝には奴国は「女王国より以北」と「其の余の旁国」の2国があるが、三宅説はこの「倭の奴国」を金印の出土した「女王国より以北」の九州北岸部に比定する。

 

しかし、九州北岸部を「倭国の極南界」というのはあたらない。

 

このため三宅説は、『魏志』倭人伝を参考にして『後漢書』倭伝をものしている范曄が、「女王国より以北」の奴国と「其の余の旁国」の奴国を取り違えてしまったのだという。

 

三宅説を「無理なこじつけ」と批判する古田武彦も、この一文を范曄の奴国に対する地理観とみて「倭国の極南界なり」と読んでいる。

 

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古田武彦『失われた九州王朝』(極南界問題P45):「狗邪韓国は倭国の西北界(三国志では倭の北岸)である。だから倭地とは、その中心領域を朝鮮・対馬・壱岐の三海峡とする海峡国家だ。“倭国の中心国(三世紀の女王国)は、倭国の西北の入口から五千里(漢里では六倍の実体、2255キロメートルを指す)の「極南の地帯」に存在している”。これが後漢書倭伝の「倭国の極南界なり」という表現の背景をなす范曄の地理観だったのだ。」

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〇「也」と「以」

 

『論語』學而に「夫子至於是邦也、必聞其政。<夫子の是の邦に至るや、必ずその政を聞く。>」とあり、「也」は決定をあらわす「なり」の意だけでなく、下を起こす辞の「や」の意もある。

 

清の王引之の著わした虚字 (指示詞・接続詞・助詞・副詞など)を解釈した『経傳釈詞』に「以、猶由也」とあり、「以って」は“理由”とある。

 

「倭国之極南界也」に続く「光武賜以印綬<光武、以って印綬を賜う>」の「以って」は光武帝が印綬を下賜した理由である。

 

「倭国之極南界也」を范曄の地の文として読むと、光武帝は何を以って印綬を下賜したのかその理由が書かれていないことになる。

 

「倭国之極南界也、光武賜以印綬」は<倭国の南界を極むるや、光武帝は以って印綬を賜う>と読む。

 

光武帝は倭奴国の使者からの情報で倭国の南界を極めることができたので、その功績をもって印綬を下賜したのである。

 

『魏志』挹婁伝に「挹婁在夫余東北千余里、浜大海、南与北沃沮接、未知其北所極。<挹婁は夫余の東北千余里に在り、大海に浜し、南、北沃沮と接す、未だ其の北の極むる所を知らず。」とある。

 

中国にとって夷蛮の国の境界を「極める」ことは、極めて重要な関心事であった。

 

〇「使驛所傳極於此矣」

 

范曄は『後漢書』倭伝を「自朱儒東南行舩一年至裸國、黒齒國、使驛所傳極於此矣」と結んでいる。

 

范曄は倭伝を締めくくるに際し、中元二年条の倭奴国の使者の情報により極めた南界とは何処かを考えた。

 

『魏志』倭人伝には女王国の東に倭種の国(『後漢書』はこれを「拘奴国」とする)があり、その南に侏儒国があり、更にその東南に船行して1年という極めて遠い所に裸国・黒歯国がある。

 

范曄はこの極めて遠い所の裸国・黒歯国が極めた倭国の南界だろうと判断した。

 

「使駅」とは、中元二年に奉貢朝賀した倭奴国の使者である。

 

「極」とは、「倭国極南界也」の「極」である。

 

「矣」は断定・決定などの意をあらわす「なり」の他に、「乎」と同じく疑問・反語の意をあらわす「か」の意味もある。

 

范曄は『魏志』倭人伝の裸国・黒歯国を指して「使駅の伝えるところの『極』とは、ここなるか(そう、ここである)」と倭伝を結んでいるのである。


2019年9月4日水曜日

19.倭国と日本国

 『旧唐書』は倭国伝と日本国伝を、それぞれ別に立てている。

 

その倭国伝は「倭国者、古倭奴国也<倭国は、古の倭奴(イト)国なり>」とあり、日本国伝は「日本国者、倭国之別種也<日本国は、倭国の別種なり>」とある。

 

『魏志』倭人伝に「女王国東、渡海千余里、復有国、皆倭種。<女王国の東、海を渡ること千余里にして、復た国あり、皆、倭種。>」とある。

 

「倭種」の皆(国々)とは、倭国とは別種の国である。

 

この「倭種」の国が、『旧唐書』がいう「日本国」ではなかろうか。

 

『旧唐書』日本国伝は「日本」の国名の由来について、「以其国在日辺、故以日本為名<その国、日辺にあるをもって、故に日本をもって名となす>」とある。

 

「日本」の国名の由来は、その国が日辺(ジッペン)にあるからだという。

 

辞書には「日」の字音は呉音で「ニチ」、漢音で「ジツ」とあるが、逆ではなかろうか。

 

普通は清濁が対立するときは元日・連日・休日のように濁っているのが呉音、日本・日課・日報のように濁っていないのが漢音である。

 

初期の遣唐使は漢字を呉音で発音していたので(漢音をまだ知らないので)、「日本」は「ジッポン」と発音していた。

 

その後、遣唐使は「日」が唐音(漢音)では「ニッ」と発音されることを知った。

 

「ジッポン」は「ニッポン」と発音されるようになったが、破裂音を嫌う(唾がとぶので)日本人はいつしか促音のない「二ホン」とも発音するようになり、今では「ニッポン・二ホン」のどちらも「国」をいう正式呼称である。

 

『東方見聞録』のマルコポーロ(1254-1324)は、日本国(ジッポングォ)をジパング(Zipangu)としてヨーロッパに紹介している。

 

「日本」の仏名(Japonジャポン)英名(Japanジャパン)は、昔の中国では「日本」を「ジッポン」と発音していたからである。(今は「Ribenリーベン」)


2018年9月25日火曜日

18.仏教伝来と文字伝来


 

『隋書』に「無文字、唯刻木結繩。敬仏法、於百済求得仏経、始有文字。<文字はなく、ただ木を刻み縄を結ぶ。仏法を敬い、百済において仏経を求得し、始めて文字あり。>」とあることから、我が国には仏経が伝来する以前には文字がなかったとされる。

 

しかし、『隋書』の記事は記紀の文字伝来記事と対応しない。

 

〇仏教伝来

 

我が国への仏教伝来については、538年と552年の二説ある。

 

538年説は、『上宮聖德法王帝説』に「志癸嶋天皇(欽明天皇)御世戊午年十月十二日、百済国聖明王、始奉度仏像経教并僧等」とある、欽明天皇の御世の戊午(538)の年の十月十二日に百済国の聖明王が始めて仏像・経教並びに僧等を度(渡)し奉る、とするものである。

 

552年説は、『日本書紀』欽明十三年の「冬十月、百済聖明王、更名聖王、遣西部姫氏達率怒唎斯致契等、献釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻。」とある、欽明十三(552)年の十月、百済の聖明王が使者を使わし、釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献上した、とするものである。

 

『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に「大倭国仏法創、自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)御世、蘇我大臣稲目宿禰仕奉時、治天下七年歳次戊午十二月、度来。百済国聖明王時、太子像并灌仏之器一具及説仏起書巻一筐度」とあり、百済の聖明王が仏教を伝えたのは欽明天皇の七年(546)とあるが、干支年は戊午(538年)とある。

 

平安時代後期の公卿大江匡房の『対馬貢銀記』に「欽明天皇之代、仏法始渡吾土、此島有一比丘尼、以呉音伝之。」とあり、欽明天皇の時代に倭が国に始めて仏法が渡ってきたときに対馬の比丘尼が仏法を「呉音」で伝えたとある。

 

仏法の経論・経教・説仏起書が「呉音」であるのは当然である。

 

隋の大業四(608)年に倭国に遣わされた裴世清は、この対馬の比丘尼が伝えた「呉音」を「文字」のことと早とちりをしたのではなかろうか。

 

平安末期成立の『日本紀略』延暦十一(792)年に、桓武天皇は「勅。明経之徒、不習正音、発声誦読、既致訛謬、(宜)熟習漢音。<勅す。明経(経書を学ぶこと)の徒は、正音を習わず、誦読を発声するに、既に訛謬に致す。宜しく漢音を熟習すべし。>」と勅命したとある。

 

朝廷は遣唐使の持ち帰った「漢音」を文字を読む「正音」としたが、桓武天皇の時代になっても中国の儒教の経典を学ぶ明経の徒は「正音」を習わず、今までどおり経典を誦読するのに「呉音」を使用していた。

 

ために、桓武天皇は明経の徒にも「漢音を熟習(習熟)すべし」と勅命した。

 

『日本後紀』延暦十二(793)年には、「制、自今以後、年分度者、非習漢音、勿令得度。<制す。今より以後は、年分度者(その年に出家を認められた人)は、漢音を習わずば、得度(悟りを求めて仏道の修行に入ること)せしむることなかれ。>」とある。

 

しかし、仏教の経典はリズムよく誦読するように呉音(上古音)で押韻されており、すでに普及した経の読み方はそう簡単には変わらず、仏教語の漢字音に呉音読みが残った。

 

日本語の漢字音に呉音読みと漢音読みがあるのはこのためである。

 

〇文字伝来

 

文字の伝来については、『日本書紀』応神十五(284)年に「阿直岐亦能読経典、即太子菟道稚郎子師焉」とあり、経典を能く読む百済の王子阿直岐が入朝し太子菟道稚郎子の師となったとある。

 

翌十六(285)年には「春二月、王仁来之、即太子菟道稚郎子師之、習諸典籍於王仁」とあり、太子菟道稚郎子の師の王仁が来たりて、太子は王仁に諸典籍を習ったとある。

 

王仁(和邇吉師)が持ち来たりた諸典籍について、『古事記』応神記に「亦百済国主照古王、以牡馬一疋、牝馬一疋、付阿知吉師以貢上。亦貢上横刀及大鏡。又科賜百済国若有賢人者貢上。故、受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十巻、千字文一巻、并十一巻付是人即貢進」とある。

 

ここにある『千字文』は魏の鍾繇(151-230) になる漢字の習本として用いられた、1000の異なった文字からなる漢文の長詩である。

 

今に残る『千字文』は巻首に「魏大尉鍾繇千字文・右軍将軍王義之奉勅書」とある、魏の鍾繇の『千字文』を晋の王義之が勅を奉じて書いた「二儀日月」で始まる『二儀日月千字文』である。

 

一般に知られる『千字文』は梁の周興嗣(470-521)が武帝の勅を奉じて、魏の鍾繇の『千字文』を韻に従い順序を正したという「天地玄黄」という言葉で始まるもの。

 

日本の地名や人名の漢字音には呉音が伝わる以前に伝わった中国上古音に由来するといわれる「古音」と呼ばれるものがある。(『講談社漢和辞典』「日本漢字音の分類」:「奇(ケ)、宜(ガ)、居(ケ)、挙(ケ)、思(ソ)、移(ヤ)、己(ヨ)、里(ロ)、川(ツ)、止(ト)」)

 

『魏志』倭人伝に「伝送文書・賜遺之物、詣女王」とある魏から卑弥呼に伝送されてきた文書には、鍾繇の『千字文』が含まれていたのかもしれない。

 

それは兎も角、卑弥呼に「文字」が齎されているのは確実である。

 

『魏志』倭人伝には卑弥呼が魏の明帝から「親魏倭王」に制詔(天子の命令)された時(景初二年)の詔書の全文が収載されている。

 

其年十二月、詔書報倭女王曰;『制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使、送汝大夫難升米、次、使都市牛利、奉汝所獻、男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今、以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授。汝其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米牛利、渉遠道路勤勞。今、以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今、以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟[罒/剡] 十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、荅汝所獻貢直。又、特賜汝、紺地句文錦三匹、細班華[罒/剡]五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、皆裝封、付難升米・牛利。還到録受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故、鄭重賜汝好物也。』

 

<景初二年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く;『親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏が郡使を遣わし、汝の大夫難升米、次、使都市牛利を送り、汝が献ずるところの男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り、以って到る。汝が在るところ踰(はる)かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚(はなは)だ汝を哀れむ。今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し仮に授ける。汝が其の綏撫する種人に、勉めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り道路勤労す。今、難升米を以って率善中郎將と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見(接見)し労を賜(ねぎら)い遣わし還す。今、絳地交龍錦五匹・絳地縐粟[罒/剡] 十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以って汝が献ずるところの貢直に答える。又、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華[罒/剡]五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠、鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して、難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以って汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝に好物を賜う也。』>


2018年9月19日水曜日

17.上古音と中古音


中国語の漢字音は漢民族の音(上古音という)の上に、異民族である北方民族の鮮卑・匈奴の音が載り、形声文字の細かな音の違いが変化して、ある文字は上古音とは違う音になる。このような形で生まれた北方系の発音を中古音という。

 

魏・蜀・呉が覇権を争うことになる三国時代の前夜、プレ三国時代ともいうべき漢末の動乱時、中国華北に鮮卑・匈奴などの北方民族が流入しはじめ漢民族は激減した。

 

184年、黄巾の乱が発生し後漢は崩壊に向かい、これを契機に曹操、劉備、孫堅が各地で挙兵し三国志の時代を迎える。

 

220年、曹操が死去し、子の曹丕が魏王を襲位。漢の献帝は曹丕に皇帝の位を譲る事を余儀なくされ、ここに後漢は滅亡した。禅譲を受けて曹丕は皇帝(文帝)となり、魏を建国した。

 

221年、劉備も漢の後継者と称し皇帝に即位し、蜀を建国した。

 

222年、呉の孫権も帝位を宣言し、三国鼎立の状態となった。

 

三国時代を通じて北方民族の流入はみられた。

 

263年、蜀が魏に滅ぼされる。

 

265年、魏が晋の司馬炎に帝位を禅譲。

 

280年、晋が呉を滅ぼし天下を統一した。

 

晋の初代皇帝・司馬炎の死の1年後の291年、王族だった司馬氏同志が抗争を繰り広げた八王の乱が勃発。王族だった司馬氏は戦闘に北方民族を傭兵として活用したことで、華北は完全に鮮卑や匈奴などの北方民族が支配するようになった。

 

316年、漢民族の晋は匈奴に滅ぼされ、首都洛陽を追われた司馬睿は揚子江流域の呉の地に遷り、東晋を建てた(都、建康、今の南京。それまでの晋を西晋と呼ぶ)。

 

華北では五胡十六国が乱継続し、386年、北魏が建国し、439年、その北魏が華北を統一した。

 

華南では420年、東晋から宋に移り、南北朝時代となる。(鮮卑族の北朝は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝。漢人の南朝は宋・斉・梁・陳の四王朝が興亡、呉・東晋朝を合わせて六朝時代。)

 

南北朝の時代に漢字音はそれぞれの地方で独自の変化をしたが、漢民族の南方系はそれほど変化しなかった(上古音を色濃く残していた)。

 

三国時代が上古音から中古音への変遷期とみる向きもあるが、魏晋時代の歌謡などの押韻パターンは去入の押韻がかなりあり、去声の多くが濁音韻尾を保持していた可能性が強く、ほぼ完全に上古音の体系になっている。

 

上古音から中古音への変遷期は五胡十六国の時代で、それも華北において顕著であったと見るべきであろう。

 

589年、南北朝は北朝系の隋により統一された。

 

〇切韻

 

隋の仁寿元(601)年、陸法言・顏之推らによって中国最初の韻書(発音辞典)である『切韻』が編纂された。

 

『切韻』に「秦人は、去声も入声(「k、t、p」の子音で終わる音節のこと)のように発音する」と書かれており、秦人にも濁音韻尾の上古音の体系が残っていた。つまり、『切韻』成立の隋の時代には濁音はほぼ消滅していたと推定される。

 

『切韻』は唐(618-907)の時代に増補され『唐韻』(732年成立)と称された。

 

唐代には韻書の他に日本語の五十音図に相当する韻図が盛んに作られ、その一部は現存していることから、この時代の漢字音はよくわかっている。

 

中古音は韻書や韻図を資料とする唐代の音韻体系で「隋唐音」「隋唐代標準音」とも呼ばれている。

 

唐の長安の発音は、声母の清濁がほぼ消滅し、次濁声母(鼻音)が鼻濁音化した。

 

唐の時代になると異民族であった北朝系を歴代王朝として正当化する為に、自分たちが使用した鮮卑・凶奴の音が混じった発音を「漢音」と称し、漢民族の音である南朝系の使用した言葉に「呉音」のレッテルを貼った。

 

唐の李涪は『刊誤』の中で切韻の発音を「呉音」であるとし、「然呉音乖舛、不亦甚乎。上声為去、去声為上<呉音の間違いはまたひどいものではないか、上声を去声とし、去声を上声とするとは>。」とか、長安では「何須東冬中終、妄別声律<東と冬を分ける切韻のような、ややこしい韻の区分をしてはいない>」と述べている。

 

『切韻』は当時の中国語の音価を反映したものではなく、漢人に対して異民族の王朝である隋・唐が多言語の統一国家を文化制度面で維持するために、儒者たちが古典を朗読するための「音価はこうあるべきだ」という、国家が認定する標準的な読書音を示した発音辞典である。

 

上古音とは詩経や楚辞あるいは辞賦などを資料とし推定された音韻体系(詩経音系)である。

 

だからこそ、『切韻』は科挙の基礎ともなった。