2018年9月3日月曜日

13.伊都国王と倭奴国王

「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來、常所駐。」

 

○「世有王」

 

陳舜臣・陳謙臣著の「日本語と中国語」に、

 

『中国語は活用しませんし、“てにをは”も時相(テンス)もほとんどありません。

―我念書。

右の中国文は<私は本を読む>と日本語に訳せます。念は読むことです。

しかし、これを、<私は本を読んだ>と、過去に訳してもまちがいとはいえません。

<私は(これから)本を読もう>と、未来に解してもかまわないのです。

現在であるか過去であるか、それとも未来であるかは、前後の関係できめるほかありません。』

 

とある。

 

翻って、伊都国の「世有王」は<代々、王がいる>と現在形で読まれている。

 

しかし、「世」とは“代々、父子相つぐこと”という意味であるから、どちらかというと現在より過去に重きをおいた用語である。

 

「世有王」は<代々、王がいた>と過去形にも読めるのではなかろうか。

 

 

卑弥呼が「女王国」の王になった経緯について「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼。<その国はもとまた男子をもって王となす、住七八十年、倭国乱れ、相い攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立し王となす、名を卑弥呼という。>」とある。

 

卑弥呼以前の「男王」ついて、魏志倭人伝を参考にして倭国伝をものしている『後漢書』に「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬。安帝永初元年、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見。」とある。

 

中元二(57)年の倭奴国は倭国の南界を知らしめた功績により光武帝から「漢委奴国王」の金印を下賜された。

 

金印を下賜された倭奴国王(委奴国王)は50年後の永初元(107)年には「倭国王」になっている。(『旧唐書』倭国伝:「倭国者、古倭奴国也」)

 

「伊都」の「伊」は字の前後について熟語を作る動作状態を形容する助辞。

 

「伊都」という表記には、伊都国が卑弥呼以前の男王、代々の倭奴(イト)国王が都とした国であったことを示している。

 

〇「皆統属女王国」

 

『諸橋大漢和辞典』は、唐律12編500条の各条にわたって字句の解釈をほどこした『唐律疎義』を引いて、「統属」の意味を“所属の官司を統べ治める”としている。(『唐律疎義』:「所統屬官者、若省寺監管局署、州管縣、鎮管戌、衛管諸府之類、是所統屬、殴傷官長者、官長、謂尚書省諸司尚書、寺監少卿少監、國子司業以上。」

 

統属の統(すべる)は“たばねる。あわせる。一つにまとめる”という意味であり、統べられる客体が単数ということはない。

 

伊都国王をいう「皆」はその意味では複数であるが、統属関係の時点では単数であり、一人の伊都国王が女王国に統属するわけにはいかない。

 

伊都国王(人格)と女王国(非人格)との統属関係においては、その統べる主体(統主)は人格たる代々の伊都国王である。

 

従って、この「女王国」は女王・卑弥呼が都する邪馬壹国一国を意味するものではなく、女王・卑弥呼が統属する「女王国」のことである。

 

「皆統属女王国」とは、卑弥呼以前の代々の伊都国王(倭奴国王)は皆、今は卑弥呼が統属する女王国を統属していた。

 

〇『後漢書』の「国皆称王、世世伝統」

 

『後漢書』の「国皆称王、世世伝統」は、『魏志』倭人伝には見えない記事である。

 

「国皆称王、世世伝統」は、伊都国王についていう「世有王皆統属女王国」の“世”“王” “皆”“統”からの造文ではなかろうか。

 

つまり、後漢書の范曄は「世有王、皆統属女王国」を、「世有王皆統、属女王国」と読んだのではなかろうか。

 

「統属」を切り離して「世有王皆統、属女王国」とすると、代々の伊都国王をいう「皆」は、卑弥呼の女王国に属する倭の諸国の王をいう「皆」となった。(<諸国は皆、王と称す>)

 

そして「統属」の「統」は、諸国王が代々その王家を伝える「伝統」の「統」になった。(<代々、統(王家)を伝う」)

 

その結果(范曄の観念の中で)、倭の女王卑弥呼は諸国の王の上に立つ“king of kings”の「大倭(ダ~イ)王」になり、卑弥呼は邪馬壹(ヤマ・イ)国から邪馬臺(ヤマ・ダイ)国に居を“移す”ことになった。(『後漢書』:「其大倭王居邪馬臺国」)


2018年9月2日日曜日

12. 伊都国は「東南陸行五百里」


 

「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來、常所駐。」

 

 

伊都国を末盧国に比定される唐津市からみて北東の糸島市に比定するのが定説である。

 

そして定説は、「東南」の方位は狂っていたとする。

 

***

橋本増吉:「総体的な方位が東北にあるものが、魏志の記載では東南となっている」

奥野正夫:「九州に上陸してからの方位は反時計回りに45度ずれている」

原田大六:「53度から65度南にずれている」

***

 

糸島が伊都国に比定されるのは、古くは糸島が「怡土」と呼ばれたことによる。(明治23年、怡土郡と志摩郡が合併し「糸島」となる。)

 

しかし、唐津から糸島は唐津湾上を直線で約20㎞であり、わざわざ末盧国で船を捨てて唐津湾岸線に沿って500里(37km)も「陸行」することはない。

 

伊都国は「郡使の往来するに常に駐まる所」であり、伊都国が九州北岸にあれば郡使は一大国から直航で伊都国へ向かう筈。

 

唐津が末盧国に比定されるのは伊都国が糸島に比定されるからであるが、朝鮮半島との通交の証である楽浪土器は北部九州において糸島の三雲遺跡から最も大量に出土している。

 

末盧国に比定される唐津の桜馬場遺跡では調査は結構多いにも関わらず、不明。

 

楽浪土器は壱岐から直接糸島に搬入されているとみえ、唐津より糸島が九州の上陸地たる末盧国にふさわしい。

 

糸島の東南には脊振山地が「陸続」している。

 

末盧国から伊都国への「陸行」とは、背振山地の“陸続とした山並みを行くこと”である。

 

糸島の東南、直線距離で約37㎞の脊振山地南麓の丘陵に吉野ケ里がある。

 

吉野ケ里遺跡の建物群の一部は、郡使の常に駐まる所の「常処」かもしれない。

2018年8月30日木曜日

11.一大国と瀚海


 

「又、南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国。」

<また、南に一海を渡ること千余里にして、名を瀚海という、一大国に至る。>

 

陳寿は渡海三海峡のうち、対海国(対馬)と一大国(壱岐)との間の海峡(対馬海峡東水道)だけを「瀚海」と名付けている。

 

『史記』匈奴伝の「漢驃騎将軍之出代二千余里、与左賢王接戦、漢兵得胡首虜凡七万余級、左賢王将皆遁走。驃騎封於狼居胥山、禅姑衍、臨翰海而還。」に注をした、唐の張守節になる『史記正義』に「按、翰海自一大海名、羣鳥解羽、伏乳於此、因名也。」とある。

 

張守節は、翰海(瀚海)は「一大海」より名づけられたという。

 

後漢の許慎になる中国最古の字書『説文解字』に「翰、天雞也、赤羽、从羽倝聲」とあり、「翰」は天雞(中国神話中の天の鶏)とある。

 

その『説文解字』に「天、顛也、至高無上、从一大」とあり、「一大」は天の異称、一・大の二字を合すると天の字になるからいう(『諸橋大漢和辞典』)。

 

『前漢書』王莽伝に「尋手理有天子字、莽解其臂入視之、曰、此一大子也」とあり、「天子」は「一大子」とも書かれる。

 

「一大国」は「天国」でもある。

 

壱岐をいう「一大国」は、倭国で「天国」と漢字表記していたのを、陳寿はそのまま「天」とするに憚ることでもあったのか、分解して「一・大」としたのではなかろうか。

 

陳寿は「一大」の表記が間違いではないことを示すために、一大国へ渡る海峡に「瀚海」と名付けておいたのではなかろうか。

 

〇天降る

 

記紀神話の「天降る」とは、天国から天国以外の土地へ赴くことをいい、天降る先は筑紫、出雲、新羅(曽尸茂梨)の三ケ所である。

 

これら三ケ所の中心に位置する対馬の小船越には「阿麻氐留神社」がある。阿麻氐留は「天照」である。壱岐の勝本町には「天ケ原」というバス停がある。高天原である。

 

天孫降臨は「高天原から筑紫への天降り」であり、壱岐の海士勢力の筑紫への侵入譚である。

 

末盧国には「魚鰒(アワビ)を捕るのを好み、水の深浅と無く、皆、沈没して之を取る」という「水人」と呼ばれる人がいる。

 

今、潜水漁をする海人・海士・海女を「あま」と読むのは、筑紫へ侵入した勢力が天(あま)と呼ばれていたからではなかろうか。

 

(余談)

 

『神皇正統記』の北畠親房は、古事記に見られる「伊邪那岐」の名は、仏教用語の「伊舎那天」の「天」が「岐」に転じたものだという。